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思いは受ける人が居てこそ



普段ほとんど喋ることのない百歳を超えるおばあさん。トイレに介助してお連れする。超高齢であったとしても、なるべくオムツに頼らず、トイレでの排泄を目指す。長老とよばれるおばあさんであってもそれは変わらない。

おばあさんは過去、幾度となくトイレに行こうとして転倒していた。生傷の絶えない方だった。そこまでしておばあさんはトイレに行こうとしていたのだ。だったら、その思いを、動けなくなったとしても果たそうとする。おばあさんの思いと行動の媒介となるのが僕ら介護職の重要な役割だ。

朝食後、いつものようにトイレにお連れし、たくさんの排便があった後、ウキウキでフロアへ戻ろうとする僕らに対し、おばあさんがボソボソとなにか呟いているのが聞こえた。これは珍しいと思い耳をすますと、おばあさんが小さな声で、

「…アリガト…」

と呟いていた。それだけでもう僕らはテンションMAX。湧き上がる高揚を抑えられない感じだ。


おばあさんは普段ほとんど話すことはない。トイレに行こうがオムツにしようが、なにも変わらないかもしれない。だが、思いを吐露できない人の思いは、その思いに馳せる人がいることで存在することができる。それは、僕らがこの人の思いなんてないとすれば、そこにこの人の思いは存在しなくなるのだ。
だからこそ、その方の思いに、せめて今傍にいようとすることが大切だ。もしかしたら全然違うことを必要としているかもしれない。それはもはや確かめようがない。それでも尚、いや、そうだからこそこの人の望むものを必死で考え、作り出そうとする方向性が重要なんだ。

「…アリガト…」

おばあさんがそういったのはもしかしたら全然別のことに対してだったかもしれない。でも、傷つきながらトイレに通ったあのおばあさんのことだ。きっとトイレで立派なものを出せたことへの感謝に違いない。

そうやって、少し驕りながらも、おばあさんが主体ある生活を送るための杖として、今日もトイレにお連れする。

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