「問題」が「問題」じゃなくなる時
ガチャン……ガチャン……ガチャン……
「あぁ、またおばあさん起きて来ちゃったなぁ…」
その音は、夜中眠れずにフロア内を歩き回る、おばあさんが杖をつく音だった。普段から杖をついて歩かれるが、特に夜間は転倒してしまう可能性が高く、迅速な対応を迫られる。
「家に帰る~!」
夕方、決まってそう言うとおばあさんは、所在なさげにフロアを行ったり来たり歩き回る。時に役割として様々な用事を一緒にしたり、横に寄り沿ってゆっくり歩いたりと、なんとかその場をしのぐ日々が続いていた。
終わりの見えない毎日に、おばあさんと共に職員も徐々に疲弊していく。もう少ししたら慣れるかも…と淡い期待を抱く職員を、「人間を舐めるな!」と言わんばかりに、おばあさんの足は歩むことを止めなかった。
いよいよ施設上層部までおばあさんの件に首を突っ込んでくるようになる中、不穏な空気感に反して、職員のおばあさんに対する「問題」意識は少しずつ薄まっていった。
その原因は、おばあさんがどんどん歩けなくなっていったからだった。
誰にとっての「問題」なのか
齢九十を超え、足腰の弱さが露見し始め、転倒が増えていく。その波も超えると、フロアの自席で座っている時間が長くなり、それに伴って転倒も少なくなっていく。段々と目を閉じて休んでいる時間が多くなり、やがて一人では上手く歩けなくなっていた。職員たちは、ようやく落ち着いてきた、と喜んでいた。
だが、本当におばあさんは落ち着いてきたのか。「問題」は解決されたのだろうか。
おばあさんは歩けなくなった。ただそれだけだ。
もしかしたらおばあさんの中では、家に帰りたい、どうしたらいいかわからないという「問題」は解決せずに残っているのではないか。だったら僕らの言う「問題」行動というのは、僕らにとっての「問題」なだけで、それが発露しなければ、そこに「問題」として立ち顕れることすらなくなるのだ。
こういったことはおそらくいくらでもあるのだろう。僕らはそのことにあまりに無頓着だ。
おばあさんは自分の思いと、自分の能力に折り合いをつけた。目の前の現実に、立ち向かう力が自分にはもうないと悟り、目を閉じたのかもしれない。
だからどうなんだ、という話ではない。だが、「問題」は誰にとっての「問題」なのかということ。
僕らの目的は介護を通じておばあさんの生活を支えること。歩き回るおばあさんをいかに封じ込めるかが「問題」ではなかったのだ。
おばあさんが目を開けた時、笑顔を振りまく僕らを見て、一体何を思うだろうか。
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