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他人の意見の受け止め方

良い意見と悪い意見をどう選別すればいいだろう。ここでいう良し悪しは、真に受けるべきものかどうかというものだ。その意見を真摯に受け止め、それまでの自分の態度を省みる。

当然のことだが、なんでもかんでも受け止めて、省みるべきではない。見当違いなこともあれば、口から出まかせに意見を述べているだけのこともある。(それが正しい場合もあるが)

受け止めるべき意見と受け止めるべきでない意見をどう見分ければいいのか。そこに答えはないが、こんなところでも多様性というのがキーワードになってくるのではないかと思う。

つまり、その意見を受け止めるかどうかは、自分の視野を拡張してくれるかどうかで判断するということだ。人間どうしても、「自分の意見が正しい」というバイアスを持ってしまう。だからこそ、それに同調的な意見は、何のフィルターも通さずに、自分の意見を補強する道具として受け止めてしまう。
そういったものは、あえて受け止めず(受け止めずとも、自動的に受け止めようとしてしまう)、それとは別の意見を尊重する。
対立意見や、これまで考えもしなかった意見に対して忖度するわけである。そうして、それをもとに振り返り、自分の意見と複数の視点から比較を行う。

簡単なことのように書いているが、これを癖づけるのは並大抵のことではない。まず先ほども述べたように、自分の意見に同調的なものは、自然とよい意見に思えてしまう。
また、相手から自分の意見と異なる意見を聞き出すのも、簡単ではない。相手との関係性によっては、上辺だけの意見になってしまうこともある。意見を聞ける関係性であるということは、必然的に年齢層も自分と近いものになってしまいがちだ。そうすると同年代というフィルターがどうしてもついてしまう。なるだけ、幅広い年代、性別、環境の人たちに聞けるのが望ましいが、それを築くのも難しいかもしれない。この点については、何かのコミュニティに参加することで改善される。例えば、地域のスポーツサークルや、ネット上のメンバーシップなどだ。私自身は、以下リンクのようなメンバーシップに参加しており、幅広い年齢層の方の話を伺えている。(ただし、運営されている方が、エンジニアの方なので、そういう職業の方が多い印象)

実際、これを書いている私自身もあまりできているとは言えない。そもそもつい最近までは、他人に意見を求めることもできていなかった。自分で決めたことは、誰に何と言われようともやるので、何も書く必要はない。と考えていて、視野を拡げるという思考がなかったためだ。
そんな私も、「このまま歳をとっていっても、ジリ貧になっていく」そう感じるようになった。どうしても1人の考えられることには限界があるし、私というフィルターを通して見える世界は狭く実に脆いためだ。

選択肢から最後に選ぶのは自分自身であり、最後の最後は直感である。しかし、その選択肢を増やしたし、選択した先にあると思われる未来を想定するために理性を総動員しなければならない。その一環として、他人の意見、しかも自分の意見とは異なるものを尊重する必要があるわけだ。

様々な意見を耳にすることで、正解が存在するのではなく、それぞれの人の価値観によって多様な選択肢があることを理解できる。そうすると、自分の価値観とは、どんなものかをより深く捉えることができ始める。自分にとって何が大切か、どういう視点を重要視していて、それはどうしてだろうか。なんてことを考えたりする。気がつけば、自分の選択の精度も以前より上がっていく。

人の意見は必ずしも聞いた方がいいわけではない。その人自身を肯定するためにただ否定するようなものや、表面的で脊髄反射的な意見もあるためだ。
ただし意見にはこれまでの自分では見ることのできない世界を写した素晴らしいものもある。これを見逃す手はなく、それを掬い取るためには、自分とは異なる意見を受け止める工夫が必要だ。それにより、選択肢が増えるだけでなく、自分自身の価値観を深めることにも繋がる。
自分の選択が必ずしも良い結果につながるわけではないが、少しでもよい結果につながることを信じて進もう。




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