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自分の感情を認めているか

どんなことでも意思決定をしていく上で、その決定要因として重要になってくるのが自分の感情だと思う。
とは言っても、自分の感情の通りに行動するのが大切と言いたいわけではない。

自分の感情に従うにしても、従わないにしても自分がどんな感情を持っているのかを前提にして行動を決定する必要があるということを言いたい。

感情に従わない行動を選択する場合にも、まず1度自分の感情を素直に認めることで、どう対応すればいいかを考え、意思決定を行うスタート地点に立てる。

他人の意見の方が正しく感じられる時にでも自分の意見、意思、感情というものを無碍に扱っていいことはない。
自分の考えをただ否定して、「このままではいけない」と感じて、自分を殺してがむしゃらに進もうとするとどこかで疲れ切ってしまう可能性が高い。自分に合っていないことをし続けるほど苦しいことはないためだ。
理想の結果を追い求めることが悪いことだとは思えないが、そのために自分という主体を置いてきぼりにして、ゴールを目指してはいけない。ゴールを目指すには、それまでに長い道のりがあるし、ゴールに辿り着いた後にも道のりは続いているから。

世間的に正しいとされているものであろうが、正しくないと思われているものであろうが自分の感情を認める。
そうしてから、実際問題として自分の要求を通してばかりではだめで、現実と自分の感情との間の落とし所を探し出していく過程に入ることができる。

こうすることで、自己否定ではない、自分の行動の変化につなげることができると思う。自分の感情を知りながら、それでもその意思決定を行う相応の理由があるから、行動を続けられるし、続ける必要がなくなったときに決定を変更しやすい。

これが、「自分の感情など存在してはだめである。」というようなスタンスで、自分を最初から完全に否定しにかかり、外部、あるいは内部から要求されていると感じる自己像を実現しようとすると、自分という存在を見失うことに繋がってしまう。他者から要求されている自己像は、考え出せばいくつでもあり、どれかを満たすとどれかを満たせない。常に、要求されている自己像と、現実との乖離が発生する。
一つの乖離を正した後に、他の乖離が目に入りそのために自分を消耗する。そうして生き続ける中で生み出すものは何だろうか。まだ、そうして生き続けた先に残るものは何か。一度立ち止まって考えてみる必要があると思う。

自分の感情をないがしろにしてしまうと、いつまでたってもしんどい状態がつづいてしまう。自分はこうあるべきという声にだけ従っていると、終わりがない。
自分の感情の声を聞くと、しんどい状態がなくなるわけではないが、「自分はこうでもいい」という肯定が生まれる瞬間と出会う確率が高まる。

自分の感情を認め、自分が実際にどう感じているのかをまず表現してみることは、もしその感情と真反対の選択を行うことになったとしても、非常に重要な作業になってくる。
自分の感情を認め、現実問題と感情を比較し、その際になぜ今、感情に従ってはだめなのかがはっきりと言語化する過程が生まれるからだ。これにより、途中でしんどくなっても、言語化された理由をもとに継続するモチベーションが維持される。あるいは理由がなくなってしまった時に感情のままに
自分の感情を認めながらも、どうしてその感情に従ってはだめなのか、自分なりの解釈を生み出すことにつながる。

感情というものはとてもやっかいで、それは自分の行動を加速させる起爆剤になるものでありながら、反対に足を掴み全く動けなくする枷にもなりうるものだ。
この感情に折り合いをつけるには、その感情をまず認めることから始めよう。完全でなくても、否定よりよい折り合いがみつかるはずだから。

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