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「手間」をかける

子供の幼稚園時代からの友達に、T君という子がいた。年子のお兄ちゃんがいる、活発な男の子だった。
お母さんは私より十年近く下で、地元生まれの地元育ち。のんびりと気の長い、陽気な人だった。幼馴染みで同い年のご主人とはとても仲が良く、絵に描いたような明るい家庭だった。

子供が幼稚園の頃だったと思う。公園で子供を遊ばせながら木陰のベンチに座り、T君のお母さんと二人きりで話す機会があった。
彼女は公園のすぐ隣にある大きな家を指差して、
「あれ、実家やねん」
と言った。立派なおうちやね、実家が近くて良いねえ、というと
「あんまり子供時代、良い思い出はないけどね」
と苦笑いするので、不思議に思って見ると、
「服とかおやつ全部手作りで。習い事もいっぱいさせてもらったわ。でも手間はかけてもらったんやけど、愛情はかけてもらってないねん」
と寂しそうに笑ったので、少なからず驚いてしまった。
結婚と同時に親から豊富な資金援助を受けて、立派な一戸建てを建てて住んでいる。子供が小さかった頃はしょっちゅう預けて、頼りにしていた・・・そんな裕福で幸せそうな話を聞いていたから、彼女の複雑な笑顔に戸惑ってしまった。彼女の子供時代に何があったのだろう、と思った。
でも彼女はそれ以上話をしなかった。それでこの話はこれっきりになってしまった。お母さーん、と手を振る子供に笑顔で答える彼女はいつもと同じだった。敢えて話を振らない方が良いような気がして、私は黙っていた。

私だけかもしれないが、余程気心の知れた相手でない限り、お母さん仲間とはこういった込み入った話はしないものだと思う。T君のお母さんとは随分歳も離れていたし、私は根無し草の一匹狼で派閥には属さない、変わったお母さんだったから、当然彼女とも会えば言葉を交わすぐらいの関りしか持っていなかった。
そういう私だったから、かえって話しやすかったのかもしれないと今になれば思う。

服やおやつを手作りして、習い事をさせてあげるのは立派に親の愛情だと思う。でもそこに彼女の求めていた「愛情」はなかった、ということだろう。
彼女の言葉を聞けば、贅沢な、と憤慨する人もいるかもしれない。しかし私にはなんとなく彼女の言ったことが理解できる。
親が「子の為」を思ってしてくれる行為は確かに尊く、有難いものだ。子供だって嬉しくないことはない。だけどそこに「子の願い」は入っていたのだろうか。そして親の「子を思う親としての自分を、認めて欲しい要求」は一ミリも入っていなかったのだろうか。純粋な「愛情」だったのか。
子供は敏感だから、「自分の本当に求めているもの」を「庇護者の私利私欲なく」与えられた時に初めて、本当に心から愛されていると感じるものだ。血の繋がりがどうとか、そういうものは全く関係ないと思う。
心から愛されたという経験は、子供の自信につながり、やがて精神的自立につながっていく。
「手間をかける」のは「愛情をかける」のと必ずしも同義ではない。「手間をかけ」ていても、かけかた次第ではそれは残念ながら、子供の心に響かないということだろう。

かくいう私も「手間をかけ」られて育ったし、自分も子供に「手間をかけ」た方だ、と思う。
私も親のそういった「手間かけ」が、自分の要求とずれていることに苛立ち、煩わしく思っていた。それは反抗期などではなく、多分当時の私も自分発でない「手間」をかけられ、それを「親の愛情」として投げかけられることに戸惑っていたのだと思う。
そして私の子供も私と同じように私に「手間をかけ」られることに苛立ち、「自分に愛情をかけてくれる親に感謝すべきなのに、苛立っているなんて自分はとんでもない性悪人間だ」と落ち込み、自分にそんな思いをさせる「余計なお世話」を焼く親を煩わしく思っていたことだろう。
私達が子供を信用し、一切を任せてただ見守るようになった時、子供は自然に深く私達に感謝するようになった。その時、私のかけていた「手間」は私自身のためのものだったのだなあ、と思い知った。

「手間」をかけることが悪いのではない。しかしそこに「親自身を満たすため」という気持ちはみじんもないか。その「手間」をかけることは本当に子供が望んでいる事なのか。
子供は本当によく見ている。「子は親の鏡」とはよく言ったものだと思う。
振り返れば反省ばかりの子育てだったけれど、今思い返すと私にいろんな物を沢山与えてくれたと思う。
有難いことである。