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ネガティブキャンペーン

アメリカの中間選挙のニュースが話題になっているが、そのことではない。
毎度おなじみ、我が夫のことである。

我が家は朝、天気予報と交通情報を観る為と、正確な時刻を確認する為という名目で、テレビをつけて食事している。すると嫌でもニュースの内容が耳と目に入ってくる。
ネガティブなニュースは朝から気分が暗くなるだけだし、私は極力見ざる聞かざるを決め込んでいる。大体、なんでわざわざ朝からアナウンサーが早起きしてスーツに身を包み、電波に乗せて世間にお披露目する必要があるのか、理解不能な「ニュース」も多いと思っているので、必要な情報を得るのが終わったら、さっさと消している。
が、夫は違う。
為替相場の情報を観ては、
「これだけ円安が進むとは…日本も終わりやな」
と呟き、電気自動車の市場では中国が独り勝ちだ、というニュースを観ては、
「これから日本は凋落の一途を辿るんやな…もう後進国や」
などと、いちいち悲観的なコメンテーターのようなことを言う。

人が朝から気分を下げないように心掛けているのに、大きな声でこのようなことを言われると、私の努力が台無しである。
初めの一言は無視を決め込むことに決めている。黙々と食べ物を口に運び、発言に無関心を装う。
だが二言目を発すると、
「だまらっしゃい!ネガティブキャンペーン止めて!」
ということにしている。
「円安はあんたの会社に恩恵もあるでしょう!悪いことばっかり見ないの!物価が高くなってるのなんて、わざわざニュースで言うてもらわんでもとっくに実感してるし!「不安な気分煽ろうとしてる作戦」にのってどうすんの!電気自動車市場今は低迷してるか知らんけど、今が一番低いってことはここからは上昇していくしかないでしょうが!日本はこれからやな、とか言えへんの!」
というのが今回私が夫に言ったセリフであった。

私が言う「ネガティブキャンペーン」はアメリカの選挙で言うものとは意味が違う。文字通り、「ネガティブ」な考えを持っていることを「キャンペーン」即ちお披露目すること、を指す、私の造語である。

夫は私の勢いに押されて、
「お、すまんすまん」
と珍しく防戦体制である。私が続けて、
「どんなこともなあ、良い面と悪い面があんの!朝からネガティブになることで良いことなんて一つもない。「俺はネガティブや」って宣伝せんでもよろしい!知ってるから!暗いこと言うたら暗いことを引き寄せるから、考えてもいいけど、私の前で口に出して言わんといて!」
と力説すると夫はしみじみ、
「ホンマやな。悪いこっちゃった」
と謝って、すごすごと出勤していった。

人間の心はネガティブな方に振れやすい、というのを聞いたことがある。
意識しないと、そっちの方が心地いいと無意識の内に感じてしまい、どんどんネガティブの沼にはまってしまうらしい。
夫だって私だって人間だから、例外ではないと思う。だから気を付けてそっちに引っ張られないようにしていないと、容易に振れてしまう。
映像があり、音声があり、解説があり、ニュースは人の心を操るのに十分な「説得力」という道具を沢山用意している。あくまでも人間が自分の思いのもとに作って送り出しているものだ、ということを常に意識しておかないといけないと思っている。
事実は事実としてあるが、その理解と解釈は自分でするものである。

夫だって、そんなことは百も承知である。それでもボケっとニュースを観ると、うっかりネガティブキャンペーンをやってしまうくらい、そっちに引っ張られてしまう。人間の心ってなんて危ういんだろう、と思う。

ポジティブが良いことで、ネガティブがダメなこと、と言っているのではない。
それは本当に自分の腹から出た、自分の考えなのか。その考えに至った元になる情報に偏りはないのか。自分と違う意見の人はどうしてその意見を持つに至ったのか。今得ている情報以外に、ニュースソースはないのか。
考え出すと一日終わってしまいそうで、とても面倒臭い。だけど、ちょっと立ち止まって「待てよ、今私なんでこの意見?」と考えることはそんなに沢山の時間を必要としない筈だ。
ネガティブな意見を述べた方が、物知りに見える。世を憂えた方が賢く見える。でも本当は違う。
自分の腹からの根拠のないネガティブキャンペーンは、何も前に進ませることはできない。世の中と自分を暗くするだけだ。
ネガティブでもポジティブでも、自分の意見を持つのはいい。肝心なのは、その考えに基づいて自分がどう行動するか、であると思う。

あ、でも夕方の首都圏NHKのお天気情報のキャラクター、「しゅと犬君」は可愛くって大好きである。この子は観たいので、いつもこの時間はテレビをつけることにしている。可愛い物好きのおばさんの、ささやかな楽しみである。