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癒し系のバリサク

私達吹奏楽をやっている人間は、バリトンサクソフォンのことを略して「バリサク」と呼ぶ。馴染みのない人には奇異な名前に聞こえるだろうが、一般的な呼称である。
「サク」の部分を「作」にするとなんだか漫画のキャラクターの名前みたいにも聞こえる。

バリトンサクソフォンは大きくて重い。6~7キロくらいある。鳴らすのも大変である。一度吹かせてもらったことがあるが、私は鳴らすことができなかった。
首からストラップで提げて立って吹くなんて、かなりの重労働である。

今いる団のバリサク担当は一人で、Fさんという男性である。おそらく楽団最高齢。いつも穏やかな笑顔の素敵なおじさま(おじいさま?)で、楽団のマスコット的存在でもある。

私たちは作冬の定期演奏会で、「坂の上の雲」のテーマ曲を演奏した。
この曲には冒頭部分にアルトサックスとバリサクのSoliがある。誰でも知っていて口遊める超有名フレーズだから、失敗すれば素人にもわかる。
この曲の合奏練習時、Fさんの緊張といったらなかった。見ていて気の毒になるくらいだった。休憩時間になるとすっかり疲れたご様子で、みんなで労わっていた。

木管のみでの練習の日の指導はO先生だった。O先生はプロのサックス奏者である。曲を象徴するこのフレーズには、当然丁寧な指導がなされた。
Fさんはどうしても早く進んでいってしまう。アルトサックスとずれる。
「Fさん、よく聴いて。リズムを感じて」
O先生は焦らさないでおこうと必死だし、Fさんは焦らないでおこうと必死なのだが、そのせいで益々緊張し、益々ずれる。
普通、演奏者は緊張するとテンポが速くなってしまうから、Fさんの問題は落ち着けば多分解消されるのだが、みんながシーンと出番を待っている中、アルトのかわいこちゃんと二人っきりで吹かされるのは緊張するなという方が無理なように思う。気の毒な話である。
O先生があまりにFさんの名前を連呼するので、私はまだ入団して日も浅かったがすぐに名前を覚えてしまった。
かなり長い間Soliは揃わず、大丈夫かなあ、と心配していたのは私だけではないと思う。

本番前日は緊張のあまり眠れなかったというFさんだが、本番の演奏は見事なものだった。みんな口に出しては言わないけど、Fさんやるやん、という空気が舞台上に流れた。
演奏終了後、指揮者によって立たされたFさんを、私達は精一杯床をドンドンして称えた。O先生は舞台袖で両手を前に突き出して笑顔で拍手していた。
Fさんの照れたような笑顔はとても晴れやかで、こう言っては失礼だが可愛かった。

Fさんは練習熱心な人でもある。
出席者が少なめな個人練習日にも必ず参加する。いつも早くに来て、一人で基礎練習を熱心にし、曲の苦手なところを丁寧にさらっている。私語も殆どしない。真面目な人柄なのだな、と思う。

口数は少ないが、言うことは素で面白い。
先日の練習帰り、クラリネットのHちゃんの靴下に可愛い柴犬の模様がついているのをFさんが目ざとく見つけて、
「それ、特注?」
と真面目な顔で聞いたので、若い子たちがわあっと笑った。
「特注の靴下ってどんなんですかあ~」
と言われて、そうかそうか、今どきはそんな柄の靴下があるんだね、と照れたように笑いながら頭をかくFさんはとても可愛かった。

Fさんを囲む空気はいつも柔らかい。一緒にいるととても和む。
ブリブリ自己主張強めに吹いてしまう人が多いバリサクだが、私はこういう人が好きだなあ、と思っている。