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姓を変えること

現在夫の姓を名乗っている私だが、実は旧姓が2つある。20歳まで名乗っていた姓と、それ以降の姓である。
前者は普通にある姓だが、後者は親族以外お目にかかった事がない。日本中探してもいないと断言出来る。

この珍しい名字は、母方の姓である。
祖父母には娘しかないのに、3人とも嫁に出してしまった。祖父が次男坊で、元々の姓を継ぐ必要がなかったからだ。次男の気楽さである。
ところが祖父の兄である長男には娘一人しか出来なかった。しかもその娘は40歳近くなるまで未婚であった。
今でこそ女性の40歳未婚は別に珍しくもないが、当時は婿養子を迎えるにはかなり難しいとされる年齢だった。

祖父の実家は代々宮司で、祖父の兄が継いでいた。今なら許されるのかも知れないが、当時女性に宮司を継がせる事は出来なかった。
祖父に兄から、お前の孫たちの内誰かに姓を継いでもらえないか、孫の子にでも養子として来てもらえないか、という相談があったのだそうだ。

祖父ははじめ、私より年上のいとこ達に打診した。しかし、その話が出た頃、独身ではあったが彼らは皆社会人であった為、姓が変わると仕事に支障をきたすと言って尻込みした。私の妹は未成年だった為、養子になるには家庭裁判所の許諾が必要だった。
つまり消去法で、大学生で成人の私が選ばれたのである。

受けてくれるか、と祖父に聞かれた時は、自分の身にそんな事がふりかかるなんて、と多少驚いたが、まあ別に良いけど?くらいな軽い気持ちと、『へえー凄い変わった名字ねえ』と言われる事へのちょっとした憧れもあって、応ずる事にした。

変わってみてどうだったかというと、一言で言うと面倒くさい事が多かった。
大学の諸々の変更届、友達への説明等沢山の細かな作業があった。学校等の正式な変更関係にはいちいち戸籍謄本が必要で、それを取り寄せる手間も煩わしかった。
変更してすぐの頃は、全く自分の姓という実感がなく、呼ばれても悪意なく無視してしまったりした。大学卒業までの間は、バイト先では旧姓、学校では新姓、中学・高校時代の友人には旧姓、就活の時は新姓、ととてもややこしい使い分けをしていた。いっそスッキリ切り替えれば良かったのかも知れないが、説明の面倒臭さと天秤にかけるとどっちもどっちだった。

結婚前に自分の実印を作る際、サービスで姓名判断をしてもらった。が、その人は私の名前を見るなり眉根を寄せて、本当に生まれてこの方この名前なのか、と聞いた。
どうしてそんな事を聞くのかと尋ねると、姓と名の組み合わせがあり得ないくらい悪いのだという。変更前の姓を伝えると、「そうでしょうねえ」と一人頷いておられた。
どうも私は最悪の組み合わせの名前で、改姓からの10年ほどを過ごしていたようだ。

私が就職した頃、祖父の兄の娘は職場恋愛で結婚した。なんと相手は婿養子に入る事も快諾してくれ、神職も兼業ではあるが継いでくれる事になった。更に、二人の間には待望の男児が産まれた。
その時点で、私がこの姓を名乗る必要性はなくなった。めでたい事である。

神職という特殊な事情もあったろうが、あの一連のゴタゴタは今の時代なら考え難い。
姓名判断の時に言われた事には結構驚いた。改姓後、特に不運に見舞われた訳でもなく、良き上司や友人にも恵まれ、無事に良き伴侶も得た。仕事で大きなトラブルに遭遇した事もない。それなりに山も谷もある人生だったけど、それは姓とは関係なかろう。

今となっては面白かったと思えるが、なかなかどうして、改姓というのは面倒なものである。
現在だと私のようなケースも、通称は旧姓のままにして、戸籍上だけ新姓にするという方法も取れるのかも知れない。
結婚しても離婚しても養子縁組しても、呼ばれる姓は本人が「私は〇〇」と思える物がベストチョイスなのだと思う。本人の使い勝手と感覚、周囲の認識等が上手く合致すると尚理想的だろう。

改姓後一度だけ、祖父の兄に会った。彼は私を拝むようにして、何度もお礼と詫びを言ってくれた。大変恐縮した。
今はきっと、草葉の陰で安堵しておられるだろう。