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愛情を下さい

今朝、夫に義姉から電話がかかってきた。要件は勿論姑の事である。

夫は二、三日前に姑と電話で話している。老健施設に入っている舅と、一人家にいる姑の顔を見に、月末頃に一泊で行くことになっているのだが、早くも姑は落ち着かないのだ。
「何時ごろ着くのか」
「夕飯は用意できないが、買ってきて欲しいものはあるか」
「風呂は壊れているが、入らなくて良いのか」
小学生が遠路はるばる一人旅をしておばあちゃんちに行くのではない。あと数か月で還暦を迎える、ええオッサンが両親の様子を見に帰るのである。
冷静に考えればやりすぎだと思うが、姑の関心はもうそこにしかない。周りが見えなくなっている。微笑ましいを通り越して、ほぼストーカーに近い。
夫はいちいち
「高速バスやから、時間はわからん」
「夕飯は食ってから行く」
「風呂は一泊くらいシャワーでええ」
とめんどくさそうに返事しているが、それに対して姑はいちいち気を揉んでいるようだ。先月もこれと全く同じ会話が交わされているというのに。
「気を揉むのがあの人の楽しみなんやさかい、ほっとけ」
と夫は笑っていた。

姑が至れり尽くせりの手厚いサポートを受けることに上機嫌だったのはつい最近のことだが、早くも飽きが来たようで、最近はまたべったりともたれかかる相手を探している。
今までは身体の不調を訴えては娘にクダクダと電話してすぐに来てくれと言い、気分の落ち込みを訴えては自分の姉や妹に電話して慰めてもらっていた。
しかし今は身体の不調の訴えはお医者さんが聞いてくれる。気分の落ち込みはデイケアで話しても「さあ、○○しましょう」と明るく誘われ、自分の愚痴につきあってくれるようなヒマのある人はいない。娘も姉妹も、姑にサポートが付いたことに安心している為、以前ほどはかまってくれない。
次第にやり場のないイライラを募らせた姑の矛先が向くのは、以前は舅であったが、今は娘である。義姉にしてみれば、とんだ仕打ちだ。

十分な愛情を受けて育っていない人と言うのは、これだけいつまでも「かまってもらう」ことを欲するのだな、と私なんぞは半ば驚きをもって姑をみている。
もともと持って生まれた気質というのも多かれ少なかれ影響するのだろうとは思うが、それにしても姑の「かまって攻撃」にはきりがない。
誰だって自分の生活があり、自分のことで手一杯である。親とは言え、別所帯のことにかまっていられる時間はそんなに潤沢に用意できない。ましてもう一人、通院の必要のある年老いた身内を抱えている義姉なら尚更である。

姑は多分理屈ではこう言ったことを理解している。しかし自分のお世話を自分で出来ないまま歳を重ねているので、沸き上がる感情をそのまま外に出して身内にぶつけてしまう。厄介なことに、姑にとって本当に「身内」と呼べるのは舅、娘、だけである。息子であるウチの夫は「可愛がりたい対象」ではあっても、自分の乱れた感情をぶつける相手ではない。むしろ息子の前では体裁を繕い、「良いお母さん」を演じねばならない。嫁や婿なんて垢の他人に対してはもっと「ええ格好」をしなければならず、接すると自分が疲れるから元気な時しか話をしたくない。弱みは見せられないのだ。

姑の自己肯定池はどういう理由だかわからないが、八十五歳を過ぎた今でも全く空っぽである。そしてそれを何とか他者に満たしてもらおうと今でも必死である。どうも年を追うごとにこの傾向は酷くなっていっているように感じて、悲しい気持ちになる。
姑を見ていると、人はこの世に生を受けてから天に召されるまで、受けるべき量の愛情を受けなければ往生出来ない仕組みになっているような気がする。本人の責任ではないのに、周囲に過剰に愛情を欲するがゆえに疎まれ、煙たがられる姑の姿を見ているのは本当に辛い。

周囲も限界がある。義姉は既に限界を超える所までいろいろやってくれている。誰かにしっかり話を聞いてもらわねば姑は落ち着かない、と思うのだが、姑は良いカウンセラーを嫌う。良いカウンセラーほど、耳に痛いことを言うからである。それで既に二人と喧嘩している。
模索は続けているが、現状八方塞がりの状態である。
女優の東ちづるさんが、八十代のご自分のお母様をカウンセリングに連れて行き、母娘揃ってスッキリされるには二年の月日を要したそうだが、姑にもこのお母様に近いものを感じている。

姑に本当に「良い人生だった、良い人にいっぱい巡り合えて幸せだった、生きていて良かった」と思ってもらえる日はどうやったら来るのだろう。
その為に自分は何ができるのだろう。
夫婦して頭を悩ませる日々が続いている。