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夫、歯医者に行く

夫の差し歯が取れてしまった話をちょっと前に書いた。
のらりくらりとポ〇グリップを頼りに誤魔化していたが、やっぱりいよいよ無理になってきたようで、やっと夫は渋々歯医者の予約を取った。
どの歯医者が良いか、については私は一切助言しなかった。そもそも二人共地元の事情に明るくないから、助言なんて出来ようがない。
夫は地元の情報通?である行きつけの理髪店の店主のおばさんに、『あたしゃA歯科に行ってるよ』と言われた、という理由のみでそこに決めてきた。

ホームページを見てみると、『インプラントのご相談も承ります』と書いてあったそうで、夫は前日まで
「いきなりインプラント勧められたらどうしよう。一本三十万くらいするんとちゃうんか」
と言われもしない事を想像しては、不安を先取りして騒いでいた。
いつものことなのであまり気にはならないが、ちょっとうるさい。勧められても嫌なら断れば良いだけの話なのに、と溜息が出る。こういう気質は姑にそっくりだ。親子だなあ、と心密かに感心する。

「歯医者は競争が熾烈で、必死で金儲けんならんさかいなあ。あくどい奴が多いんや」
まだ会ってもいない先生を、よくそこまで批判出来たものだと呆れる。世の中の歯医者はみんな大方、金の亡者で悪者かい。だからってあんた、自分で自分の歯、どうしようもないでしょうに。
金儲け、大いに結構やんか。あんたは嫌いなん?私は金儲ける人大好きやで。私も金儲けしたいで。自分がたいして稼げへんから、先生にヤキモチ焼いてんの?
と心の中で思い切り毒を吐きつつ、
「大丈夫、あんたの風体見てインプラント勧める人おらんと思うよ。ひょっとしたらええ先生かもしれんでしょ。嫌がるのを押さえつけてインプラントしたら犯罪でしょ」
と子供を諭すようにくだらないことを言って、あとはしっかりと口を閉ざした。
夫はその後も、詮ない繰り言をブツクサ呟いていたが、私はそれきり耳にシャッターを下ろすと、おやすみ、と言って二階に退散した。階段を昇りながら、本日の営業は終了させて頂きました、と呟いて舌を出した。

当日、夫は
「ああ、嫌やなあ。何されるんやろう。嫌な奴やったらいっぺんで行くの止めたんねん」
と怖がったりイキがったりしつつ、おっかなびっくり出かけて行った。
まだ会ったこともない先生を『奴』呼ばわりするなんて、失礼にも程がある。ちょっと罰を当てられると良いのに、と腹の中の鍋でグツグツやりながら、行ってらっしゃいと笑顔で送り出した。

一時間ほどして、夫は思いのほか上機嫌で帰ってきた。
「物凄いエエ歯医者やったわ。行って良かった」
医師は夫の歯を診て、状態を丁寧に説明してくれた後、差し歯をキレイに元通りに治してくれたそうである。オマケに咬み合わせも調整してくれて、以前よりずっと快適になったらしい。満足の行くようにしてもらってすっかりご機嫌な様子である。インプラントのイの字も出なかったそうだ。当たり前である。
これでやっと見たくない、情けない歯抜け姿の夫を見なくてもよくなり、私はホッと胸を撫でおろした。

「オレ、めっちゃ口臭かったんと違うかな」
その日の夕飯の時、夫が思案しいしい、急にそんなことを言い出したので不思議に思って理由を訊ねると、
「診察前に『これでお口濯いで下さい』って青い液体でうがいさせられたぞ」
と大真面目に言う。
「何言うてんの。コロナ以降、歯医者さんと歯科衛生士さんを守る為に、必ずどこでもさせられるやん。口の消毒でしょ?私もいつもするよ」
と私が笑いを堪えながら言うと、
「お、そうなんか。てっきりオレの口が臭いからやらされたんやと思うてたわ。ああ、良かった」
と大袈裟に安心している。
歯医者に行かないにもほどがある。何年行ってないんだか。

口中の状態も良好だったらしく、夫はホクホクしていた。
「あの歯医者はエエぞ。お前も今度からあそこにしろや」
あんなにビクついて『奴』呼ばわりしていた癖に、とんでもない掌返しである。バカバカしくなって、
「そう。一応ご意見拝聴しておくわ」
と適当に返事すると、夫はフフンと鼻で笑って
「折角人が親切に勧めてやってんのに。お前は素直でないやっちゃな」
と呆れた調子で呟いて、憐れむように私を見た。

誰がやねん!!