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思いやり

先日、毎日のように連絡をくれる親友のことが悩ましい、という記事を書いた。先方に悪気がないのがわかっているし、幼い頃から一緒に遊び、青春時代には恋愛や親、友人、勉強のことなどを誰よりもよく相談してきた相手だから、無下にするのは忍びない。しかし、連日のLINE攻撃?に私はかなり疲れてきていた。もう限界だと思い、所謂「既読スルー」を実行してみた。
嫌いな相手に対してこれを行うのは肩こりがほぐれるような爽快感があるが、親友相手は結構辛いものがある。心の中で「ゴメン」と言いながら数日やってみた。

事態は思わぬ方向に向いた。
「大丈夫?何かあったの?」
というLINEが一日に何回も入るようになったのである。
これには往生した。彼女はウチの両親とも親しい。家も近い。下手をするとそっちに連絡して、妙なことになったら困る。両親にも要らぬ心配をかけたくない。
はっきり言うのは悩ましい。でも曖昧はダメなんだな、とよくわかったので、以下のように返信した。
「すぐに返事しなくてゴメン。実は最近いろいろ忙しいことが続いてて、返信が難しい日が多い。元気にしてるから心配しないで。いつもありがとう」

彼女からは
「無事で良かった。返信は出来る時で良いからね」
という至極善良な返信が来て、私の申し訳なさに拍車をかけた。が、取り敢えず毎日の連絡はなくなった。
彼女には悪いが、心からホッとした。

思いやりが「親切の押し売り」になっては、折角の好意が台無しである。思いやりを与えた方も、与えられた方もどちらも良い気がしないなんて、凄く残念なことだ。
受け取る人がどう思うか、は与える側にはコントロールできない。
受け取る人に対して少しでも「与えてやる」ような上からの気持ちがあれば、それは「自己満足」という名の偽善である。それは思いやりとは言わない。
私の親友はそのような人間ではない。

ただ、彼女とやりとりをしていると、
「人生はつらいもの、苦しいもの、大変なもの」
という無言のメッセージと、貴女もそう思うでしょう?という決めつけを感じる。私自身の問題なのだが、そう決めつけられることに対してどうしても拒絶反応が起こってしまうのだ。
彼女は早くに両親を病気で亡くし、キツイ姑さんに仕え、いつまでも心を開いてくれない娘に悩んでいる。人生を肯定的にとらえろと言うのが酷かもしれない。私の方が余程世間知らずの極楽とんぼなんだろうとは思う。
それでも彼女が逆境にあることが、私が彼女の『「思いやり」という名の圧力』を受けねばならない理由にはならない。
これで良かったのだと思う。

前の楽団に居た時のことを思い出した。
当時私は定期演奏会の度に実行委員として駆けずり回っていた。演奏すること以外があまりに忙しかったせいか、今でもその頃の演奏会の内容を殆ど思い出せない。
ある演奏会のリハーサル中、準備に疲れて舞台袖でちょっと座り込んだ時、スマホがメールの着信を知らせた。開けてみると、Tさんという休団中の団員からだった。
「在間さん、忙しい時にごめんなさい。準備に駆け回っておられるんだろう、と思っています。何もお手伝いできなくて申し訳ありません。応援してます。また一緒に合奏できるのを楽しみにしています。定演、成功しますように」
Tさんは認知症の祖母と糖尿病の母親を同時に世話しつつ、三人の子供を育てていたシングルマザーであった。あまり親しく喋ったことはなかったが、ファゴットは勿論ピアノも抜群に上手く、合奏時には随分頼りにして色々相談していた人だった。
メールを読んだ時、涙がひとりでに出てきた。行間にあふれる彼女の「思いやり」が疲れ切った心に沁みた。もう少しだ、頑張ろう、と心から思えた。

親友のLINEとTさんのメールの何が違うのだろう。親友は毎日、Tさんはたった一度である。
親友はお互いをよく知る仲であるが、Tさんのことはあまり知らない。
でも私は親友のLINEを煩わしく思い、Tさんのメールに涙を流した。
「思いやり」の有無を判断するのは、与えられた側の人間にしかできない仕事なのだと思う。

「思いやり」には仲が良いとかよく知っているとか、そういったことはあまり関係なさそうだ。
心配して「あげる」のでも、気遣って「あげる」のでもない。無私の心で、その人の有り様にただ心を寄せることーそれこそが「思いやり」であると思う。