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ひとりぼっちが寂しい時

先日の夜、子供が久しぶりに帰ってきた。病み上がりであまり食欲がないとのことで、いつものように酒池肉林?のパーティーという訳にはいかなかったが、久しぶりに家族水入らずで夕食のテーブルを囲んだ。
ゴールデンウイークもバイトやらなんやらで忙しく結局一日も帰省しなかったということだったから、話題は尽きることはなく二時間以上話し込んでしまった。
夫は翌日有給休暇を取得して、職場の後輩達と早朝からキャンプに行く予定だったので、早々と寝てしまった。子供も帰宅した日は授業が六時近くまであって忙しかったらしく、疲れてこちらも早めに部屋に引き取った。

翌日は授業がないので朝からゆっくり寝ている、という子供に留守を任せて、私は仕事に出かけた。夫は夜明けと同時くらいに家を出ているから、とっくにいない。
帰宅すると午後二時頃。子供が帰り支度をしていたので、取るものも取り敢えずありあわせの昼食を作って一緒に食べ、手土産を持たせて、元気に帰っていく子供を嬉しい気持ちで見送ったのは三時を回った頃だった。
ここからは子供の着ていたパジャマや寝具を洗濯したり、部屋の掃除をしたり、洗い物をしたり・・・と後始末をして、ふと時計を見るともう四時過ぎだった。いつも通り夕方の家事をして、ほっと一息つくと六時過ぎである。

夕飯にはちょっと早いがもう食べようかな、と思って台所に行く。
昨日三人で賑やかに喋っていたダイニングテーブルにつくのは、私一人である。テーブルが広すぎて落ち着かないので、居間の低いテーブルに昨日の残り物と日本酒の小瓶を持ってきて、夕飯にする。
良い具合に酔いが回ってきたところで姑に電話すると、とても機嫌よくしゃべってくれたので安心した。元気な様子だ。姑も一人、夕餉の膳と向き合ったのだな、と思うと少し気持ちがわかるような気がする。

私は孤独が好きなくせに、一人は苦手である。昨日まで沢山の笑い声が家に響いていたから、余計嫌だ。
姑が元気なことはとても嬉しい。夫の不在は何かと楽である。子供はやっと大学生らしい生活を謳歌し、勉強にも意欲的に取り組んでいるようで喜ばしいことこの上ない。有難いことばかりである。
そう、有難いことばかりである。なのにこうして一人でいると、とても寂しい。私の寂しさを満たすのは他人ではないけれど、やっぱりシーンとしているのは性に合わない。贅沢なものだ。
私にとって、自由度と寂しさは比例するのだろうか。

孤独ってどんな時に感じるのだろう。話し相手がいない時だろうか。
クラリネットの師匠のK先生は、ドイツ留学中の三ヶ月間、一言も喋らなかったことがあるそうだ。知り合いもなく、言葉も全くわからず、喋りようがなかったらしい。
「あの三ヶ月間は、これ以上味わったこともないくらい孤独だった」
と仰っていた。私はそこまでの経験はしたことがないので、想像もつかない。
姑は初めは面倒臭そうに電話をとっても、喋っているうちに声が元気になってくる。「一人でいる」という気分が薄らいでくるようだ。血の繋がった子供ではないけれど、知っている人と喋れる、というのが活力に繋がっているのではないか、と思う。

私が孤独を嫌だと思うのはどんな時だろう。
今日あったことを話す相手がいない時。今日あったことを話してくれる相手がいない時。それだけのような気がする。
特に何かかまって欲しいわけではないが、ただそばに誰か居て他愛のない会話をするということが難しい時、相手を探すような、つまらないなあと思うような、そんな気分になってしまう。

孤独はワクワクすることもある。今、私は居間で日本酒をちびちびやりながらこれを書いている。横には大好きなマンガが山積みになっているし、シンクはほったらかしだ。でも自分が寝るまでに片付ければ良い。ここからの時間は全て私の自由。なんて素晴らしい。一人だからこそなし得ることだ。
でもそう感じるのは、またひとりぼっちではない日々に当然のように戻れるのを知っているからだ、と思う。

孤独な時間が全くないのは困る。息が詰まる。たまにはないと、疲れ切ってしまう。
かといって、ずっとこれは寂しすぎる。いずれはそうなるんだろうけど。
私のワガママにも困ったものだ。きっと姑も顔負けの「クソババア」になるに違いない。
嫁さんに嫌われないようにしないと。