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年齢を忘れる

三十代の中頃は自分の年齢を正確に記憶するのがとても苦手だった。
年齢を記入する必要のある時など、真剣に困っていた。西暦年を見て、計算してやっと正確な年齢を思い出す。なんでこう覚えられないんだ、ひょっとして、早くも記憶中枢が何かしら障害を起こし始めているのかしら、などと不安になることも度々あった。
四十代でもそれはあまり変わらなかった。年齢を重ねていくことを嫌なことと考えていて、脳が覚えないようにセーブしているのかも、とも思っていた。
ところが五十代になるとどういうわけか、しっかりと自覚するようになった。いちいち計算しなくても、スッと自分の年齢が言える。
この状態が普通である。以前がおかしかったのだ。

年齢を正確に言えるようになったけれども、年齢の自覚があるかどうかというと、年齢を覚えていなかった頃よりもないように思う。
『もう五十代だし』
『更年期世代だから』
と口では言ってみるのだが、実感は伴っていない。全然そんなこと思っていない。言わば社交辞令的に口にしている。最近はこれすら言わなくなってきた。
なぜこんなに年齢の自覚がないのだろう。

三十代の時は子育て真っただ中で、毎日が無我夢中だった。子供の月齢は興味と関心の対象だったから正確に言えたけれど、自分の年齢にはそれを全く感じていなかった。
四十代は子供の進学やらなんやらで、やはり自分がお留守になっていた。
子供が年齢を重ねることを母親業の勲章のように思っていた日々だった。そして日一日と出来ることが増えていく我が子を嬉しく眺めつつ、それとの交換条件のように若さを失っていく自分を悲しく、厭わしい気分で見つめていた。
きっとこの気持ちが正確な年齢を覚えさせなかったのだと思う。
様々なことがあったが、一応子供の手を離すことが出来た五十代、やっと私は自分の年齢を正確に言えるようになった。
興味と関心が再び自分に向いてきた、ということなんだろうか。

昔は五十代と言えばおばあちゃんの年齢でもあり、物凄く年寄りのイメージを持っていた。五十代なんてもう終わってる、老人への入り口だ、と皺くちゃになった自分の顔を想像して恐怖?していた。
二十歳になった時、
『なんや二十歳って大人じゃなくて子供やん』
とどこか拗ねたような違和感を抱いたことがあったが、今は
『なんや、五十代って結構若いやん』
とルンルン気分で思っている。無理矢理そう思おうとしているとか、精神的に老け込みたくないから頑張っているとかじゃなくて、本気でそう思うのだ。
呆れるほどお目出度い。

外見は時間と共に確実に老け込む。白髪こそ少ないけれど、そんなの時間の問題で、この先ドンドン増えるに決まっている。目尻の皺も寄りやすくなった。首のたるみだって気になり始めた。身体は正直だ。
でも普段はそんなこと、私の頭の中からすっかり消えている。いや、女性としては消えない方が良いんだろうけど、まるでそんなことを全く気にしなくて良かった二十代の頃のような心持である。
きっと毎日が楽しくてしかたないから、だろう。
好きな楽器を吹いて、好きな音楽を聴いて、行きたいところに行く。家事は面倒だけれど、どうやったら粛々と上手く出来るのかを頭で素早く考えて工夫するのは楽しい。夫と今日あったことを話す夕餉の時間が待ち遠しい。仕事でお客様や同僚と交わす会話が楽しい。
楽しいこと、幸せなこと、は年齢とは関係なく、私の周りのあっちこっちに転がっている。それらを拾うのに忙しくて、老け込むのを忘れているように思う。

そうは言っても魔女ではないのだから、実際には歳をとっていく。
しかし今のところ、歳を重ねることに不幸な感覚は全く持っていないし、恐怖も感じていない。
姑や母が
『歳は取りたくないわ』
と嘆くのは、きっと出来ないことが増えていく不安と、命の期限が近づいて来る恐怖に押しつぶされそうになっているからだろう。
その年齢になってみなければ分からないことも多いだろう。この先私の人生にどんなことが待っているかは、神のみぞ知ることだ。でもそれは私に用意された、必要なことなんだから、しっかり受け止めようと思って静かに待っている。怯えてはいない。

能天気と言われようが、アホと言われようが、私は幸せな五十五歳である。