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根なし草のふるさと

所用があり、関西に帰ってきている。
同じ駅から新幹線に乗った後ろの席の二人は、関西の人のようだ。関西弁が懐かしい。
車窓から次々と変わっていく外の景色を眺めながら、私のふるさとはどこなんだろうな、とぼんやり考えていた。

「ふるさと」とは「生まれ育った所」だと言うなら、私の場合生まれた所と育った所が異なるので、どちらを基準に考えれば良いのか、わからなくなる。
「長い時間を過ごした所」と言うなら、育った所かと思う。しかし育った所に対してノスタルジックな郷愁は感じない。
そこでは家族も自分も様々な問題を抱えていることに気づき始めていたのだが、それを直視する勇気は当時の私にはなかった。そんな気分を紛らわせるには、育った所はあまりにも退屈だった。
だからどちらかと言うと「やっと脱出できてせいせいした」という感じの気分で後にしたので、気持ちの上ですんなりと「ふるさと」だと認めるのが難しいのだと思う。

結婚後初めて夫と二人で暮らした北陸を、ふるさと呼ぶのは違う気がする。しかし今でも尋ねれば歓迎してくれる人の顔はいくつも思い浮かぶ。懐かしい味も、懐かしい景色もある。
何より初めて親から独立して所帯を構え、やっと新しい家族として夫と二人歩み出した地には、楽しかった思い出と、初々しかった私達家族の足跡がいっぱいある。
だからある意味「ふるさと」のようなものだと感じている。

二度目の転勤で住むことになった関西のある土地は、私の実家の辺りによく似た感じの風景が広がっていた。だからか、最初から違和感なく馴染めた。
古い歴史があり、「商人の街」だったことは私には物珍しく、何年住んでもいつも観光客のような気分を味わっていた。
結婚以来初めて働いた土地でもある。そこでは多くの人と親しく話すようになった。子供と楽団繋がり以外の友人関係が出来たことは大きかった。
この地は子供が小学校から高校卒業まで過ごした土地である。子供にとってはここが「ふるさと」と言えるのだろう。この地に行くことを子供が「帰る」というのもわかる。私達夫婦にとっても、子供にまつわる沢山の思い出が残っている土地でもある。
十七年もの時間を過ごしたのだから、ここも「ふるさと」と呼べるだろう。

父は京都の丹後地方の出身だが、高校卒業後は京都市内に出ていたから、生まれ育った所よりも他で過ごした時間の方が長い。だが父からは、「京丹後」に対する深い愛を感じる。
由良川の水で産湯を使ったことは今でも父の誇りであるし、豊かな自然のなかで育ったことは、体力的にも精神的にも父の基礎をなしているのだと感じる。こういうのが「ふるさと」と呼べる場所なのだろう。
母は京都の下町生まれだが、父同様未だにそこが大好きなのだな、と感じる。
「今の家に住んでいる時間の方がふるさとに住んでいた時間より長くなってしまった」と嘆かわしそうに言っては、懐かしそうに下町の思い出話をする。母の心は今もずっとこの京都の下町にあり、どこへ行っても自分は「京都人」だと思っているのが伝わってくる。
だから二人にとっては「生まれ育った所」がそれぞれの「ふるさと」なんだろうなあ、と思っている。
私にはそういう所は今のところない。田舎の自然はとても豊かだったし、そこで友達と思い切り遊んだことは、懐かしい思い出ではある。でもそれが自分の根幹を成しているという気にはまだ至っていない。「○○人」と自覚するほど、強い愛着を持つ土地もない。
私のふるさとは一体どこになるのだろう。

想像する事もできないが、今住んでいる関東にも、そんな愛着を覚えるようになる日が来るのだろうか。
根なし草の私のふるさとは、沢山あるような、どこにもないような気がしてしまう。