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かなえねばならない夢

もう十年以上前の話になるが、以前所属した楽団の演奏会で、『ムーンライト・セレナーデ』(グレン・ミラー作曲)のソロを担当させてもらったことがある。
この曲は有名なジャスのスタンダードナンバーだが、吹奏楽用にアレンジしたものが存在する。吹奏楽版は細かいことをいうと『なんちゃってジャズ』の域を出ないが、ソロはジャズと同じ調でほぼ同じフレーズを歌い上げている。
ため息の出るような甘い、切ないフレーズはクラリネット吹きなら誰しも大好きなのではないだろうか。

これを演奏した頃の私は、まだ初心者に毛が生えたくらいのレベルだった。後に師事することになるK先生にもまだ出会っていない。基礎も無茶苦茶、音程も音色も悪い私がこれをやらせてもらえたのは、ひとえに自分の押しの強さと厚かましさ故のことだったと思っている。厚顔無恥を絵に描いたようだったろう。
しかしいざ取り組んでみると、簡単そうに聴こえるこのフレーズを『歌い上げる』ことの難しさに、私は頭を抱えてしまった。加えて息がちゃんと入っていないものだから、クライマックスで金管軍に負けないように音を張り上げると、音色が死んでしまう。指揮の先生が懸命に周囲のボリュームを押さえようとして下さるが、多分これ以上は落とせないだろうと思われた。

更にこのソロを甘く演奏するのに欠かせないのが、随所に入れるビブラートだった。音をまっすぐに伸ばすのではなく、微妙な『揺れ』を入れることにより、雰囲気を作るのである。割合簡単にできる奏法であるが、アンブシュア(口の形)が正しくないと耳をつんざくようなキツイ音が鳴ってしまう。初心者がやりがちな失敗である。
『運指も簡単だし、音もそんなに高くないし、カッコイイし、目立つし、やってみたい。ビブラートくらいなら簡単にかけられる』という浅はかな目論見のせいで、私は自滅の道を辿りつつあった。
何度やってもキイキイとした汚い音が、一番の聴かせどころで入ってしまう。泣きたくなった。練習序盤で、私は自分の甘さを早くも後悔し始めていた。
個人で練習を頑張るしかないのに、当時の愚かな私は上手く演奏するための最速の方法を見つけようとした。そしてとんでもなく厚かましい案を思いついた。
『分からないことはプロに聞こう』
早速手紙をしたため、譜面のコピーと返信用の封筒に切手を貼ったものを同封し、投函した。そしてたいして熱心に練習もせず、合奏の度に相変わらずキイキイ言わせては、一人落ち込んでいた。

そんなある日、自宅に一本の電話がかかってきた。
「こんにちは。突然すいません。僕、○○と言います。クラリネットを吹いています。在間さん、ですよね?お手紙拝見しました。ありがとうね」
ビックリしてしまった。
あろうことか私はジャズ界の超大御所、○○さんに手紙を出したのである。今思えば無謀にも程がある。
返事が来るとは端から期待していなかったし、殆ど自己満足の質問だったから、まさかご本人から、しかも直接電話を頂けるなんて全くの想定外だった。私はしどろもどろになってしまった。そんな私に○○さんは笑って、優しくこう仰った。
「文字にしてしまうとね、言いたいことが伝えにくいからと思って、悪いけど電話させて頂いたんですよ。突然でビックリされたでしょう。ごめんなさいね」
柔らかい物言いは○○さんのクラリネットの音、そのものだった。

その時○○さんが丁寧に教えて下さったビブラートのかけ方や、フレーズの歌い方は、残念ながら当時の私には理解するのが難しかった。後から『自分ならこう吹く』というご自筆のアレンジ譜面まで送って頂き、本当に恐縮するばかりだった。
K先生に基礎から叩き直して頂いた今なら殆ど全て理解できる。
余談だが、この時のことをK先生に話すと物凄く怒られてしまった。K先生はご自分の師匠が○○さんとお友達で、何度か実際にお目にかかったこともあるらしく、お人柄も良くご存知だったのである。
「あの方は凄く良い方だから、放っておけなかったんでしょう。でもプロを安易に頼っちゃいけません!しかも謝礼もしないなんて、非常識です。無知だったとはいえ、恥ずかしいことだと思いなさい!お忙しい方なのに、申し訳ないことですよ」
とかなり厳しい口調でお説教されてしまった。
後悔してもしても、キリがなかった。穴があったら入りたい、とはこのことである。

○○さんはもうかなりご高齢だが、今もなお現役のプレイヤーである。
彼の温かい音色を耳にすると、あの時電話から聞こえてきた、とてつもなく優しい、思いやりにあふれた言葉の数々を、どうしようもない恥ずかしさと共に思い出す。
いつか近いうちにちゃんとご本人にお目にかかって、あの時のお礼とお詫びを申し上げたい。そして願わくば○○さんの『ムーンライト・セレナーデ』を生で聴いてみたい。
厚かましい私のずっとかなえたい、いや近いうちに必ずかなえねばならない夢である。