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ドルチェ

私は永らく『dolce(ドルチェ)』の表現が苦手だった。レッスンの度に先生に、
「そうじゃありません!ただ弱々しく吹いたらドルチェ、って訳ではないっていうのはわかりますよね?」
としょっちゅうダメ出しされていた。
吹奏楽の楽譜にも出ては来るが、頻度は高くないと思う。どちらかというと室内楽の、クラリネット一本とピアノ、と言ったような曲に多く出てくる表現である。
イタリア語で、本来の意味は『甘美な』とか『甘い』などだ。音楽限定の用語という訳ではなく、お菓子などの食品などにも使われる。聞いたことがある方も多いだろう。

「あなたは『ドルチェ』にどういうイメージを抱いていますか?」
ある時、師匠のK先生に言われて、はたと考え込んでしまった。でも答えないのは許されない。荒唐無稽な答えになろうとも、何か言葉を発しなければ先生にお目玉を食らうのは目に見えている。困り果てて取り敢えず、
「あまーい・・・」
とは言ったものの、後が続かない。
「ほう、あまーい。で?」
先生は分かっていて急かす。こういう時先生は物凄く意地悪である。苦し紛れに、
「うーん、ロマンチックな、とかうっとりする、とかでしょうか」
という、自分でもよくわからない答えを並べてみた。
先生は目を瞑って腕組みしていたが、
「正確に言うとやや違いますが、まああなたのイメージはそういう感じ、ということで良いでしょう。ではそういう感じで吹いてみて下さい」
と言ってニヤリと意地悪く笑った。
そういう感じってどういう感じ?私は益々困ってしまった。

結局その曲の『ドルチェ』はあまり上手く吹けないままで、次の課題に移って行くことになってしまった。先生曰くは
「『ドルチェ』を表現した演奏を、沢山聴きなさい。それを真似て、自分なりの『ドルチェ』のイメージを作っていくんです」
ということだったので、色んな演奏を必死で聴いた。流して聴くのではなく、『この奏者はどのような捉え方をしているのだろう』とかなり入り込んで聴くようになった。
こうやって様々な演奏を聴くうち、私はそこに共通するものを発見した。
「アピールする自己陶酔」
である。

自分の演奏に甘く酔う。自分の音色に聴き惚れる。自分のフレーズ回しに酔う。でも決して我を忘れている訳ではない・・・そうしながら、自分のやり方で、自分の感じていることを堂々と主張する。
どんな演奏も個性の発露ではあるだろうが、『ドルチェ』は特に顕著に表れる表現方法だと思う。

以前、伝説の調律師 村上輝久さんの書いた『いい音ってなんだろう』(ショパン社、絶版)というエッセイ集を読んだことがある。
この中に、世界的ピアニストで先月亡くなった、マウリツイオ・ポリーニとの『ドルチェ』に関する興味深いやり取りが記されていた。
ポリーニの自宅のピアノを調律するよう言われた村上さんは、
「この音をもっと『ドルチェ』にして欲しい」
と特定の一音について依頼された。
ポリーニの望む『ドルチェ』は一体どんなか、村上さんは考え抜いて仕上げて、ポリーニに示した。しかしポリーニは首を縦に振らない。それが何度も繰り返された。
しまいに彼は奥さんにデザートを持ってくるよう頼み、それを村上さんに食べさせた。
そのケーキは強烈にこってりと甘く、村上さんは驚いたが、その表情を見てポリーニはニッコリして
「これが私の望む『ドルチェ』だ」
と言ったらしい。
ケーキを食べ終えた村上さんは、再度『ドルチェ』な音を出すべく、調律を行い、ポリーニに示した。
その音を弾いたポリーニは微笑んで頷いたという。

この行を読んだ時、プロはかなり明確に、自分の表現したい音のイメージを持っているのだな、と感心した。そして見事のポリーニのイメージ通りに『ドルチェ』な音を作り上げた村上さんの技術と慧眼に、神業ってこういうことを言うんだな、と思った。

『ドルチェ』の説明で手こずってから随分経った頃、ようやく楽譜に『dolce 』という文字を見ると、『自分はどう吹きたいと思っているか』を基準に演奏出来るようになった。
思えば先生に問われた頃の私は、『どう吹くのが正解か』ばかりを気にしていた。そうではなくて、世間的には多少おかしな表現でも、『自分の考えるイメージ』を表す事が大事だったのだ。先生はそれを私に悟らせたかったのだろう。
ポリーニと村上さんの話が、今頃胸に響くようになった。
私はまだまだ気付いていない『学び』を、先生に沢山与えられてきたのだと思う。
しみじみ幸せなことだと思い、あらためて先生に感謝している。