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音痴な父の音楽教育

子供の頃、といっても何歳ごろだったのかの記憶は曖昧だが、父が毎月、童謡のLPレコードを買って帰ってくれた時期があった。
どのくらいの期間だったのかは全く記憶にないが、手提げの付いた大きめのビニールバッグに入ったレコードを帰宅したばかりの父の手から受け取ると、とても嬉しかったような記憶がうっすらある。
家には小ぶりながら割合良い音のするプレーヤーがあり、夕食後にはレコードに針を落とすのが楽しみだった。
レコードには歌詞カードのような、絵本のようなものが付いており、膝の上で開いて歌詞を追いながら、妹や母と一緒に声を合わせて歌うのは楽しいひとときだった。
しかし父と一緒に歌った記憶は一度もない。

父は自他共に認める酷い音痴で、人前はおろか、家族の前で歌うことすら殆どなかった。
そんな父がある時、友人に乞われて娘さんの結婚式で歌うことになった。これはマズイ、ということになり、妹と私で父を特訓することになった。
父は頑張った。娘達に強烈なダメ出しを頻発されながら、カセットデッキを前に必死で練習する様子は、ちょっと涙ぐましいくらいだった。
休符を無視していきなり歌い出しては
「ああもう!まだまだ!」
とストップをかけられ、音程を外しては
「なんで伸ばしてるうちに音程下がるねん!」
と突っ込まれていた。
いつもなら
「偉そうに言うな!」
とどやされそうだが、この時の父は真剣そのもので、汗水たらして声を張り上げている様子は、気の毒だがちょっと滑稽だった。
結婚式から上機嫌で帰ってきた父を見ながら、妹と私は
「まあ花嫁の気分を害することはなかったんちゃうかな」
とニヤニヤしていた。
しかし私の記憶にある限り、父が人前で歌ったのはこれっきりである。

そんな父が、あんなに熱心に毎月レコードを娘達の為に買って帰っていたのは何故なんだろう、というのは私の永年の疑問だった。
母が頼んだのか、と思っていたのだが、母に確かめると『言い出したのは父だった』というので驚いた。
なんでもある日突然、
「これ、ええな。頼もうか」
とレコード屋の店頭にあった販促チラシを持って帰ってきたらしい。
当時はまだウチにプレーヤーはなかったので、
「プレーヤーないでしょ。買うの?」
と母が言うと、
「一台あってもええやんか」
しまり屋の父が珍しく即答したので、母は目を丸くして驚いたそうだ。
かくして、我が家にはなかなか立派なレコードプレーヤーがやってきた。
このプレーヤーは長い間、大活躍した。クラシックを初めて聴いたのも、夢中になっていたカルチャー・クラブやYМОのレコードを聴いたのも、このプレーヤーである。

しかし結局、父が何故私達に童謡のレコードを毎月買う気になったのか、は未だに分からずじまいである。情操教育に熱心だったとも思えない。同年代の子供を持つ同僚の誰かが買っていたりして、自分もその気になったのかも知れないが、本当のところは父に訊いてみないとわからない。
でも異常に無口でシャイな父のことだから、きっと冗談にしてはぐらかされて終わりだろう。

それは兎も角、私が今でも多くの童謡の歌詞を二番までしっかり覚えているのは、多分このレコードを何回も聴いたお陰?なんだろうと思う。
いくつかの曲には、子供心に疑問も覚えた。
中でも、『船頭さん』(武内俊子 作詞、河村光陽 作曲)は威勢のいい感じの歌なのに、なんであんなに悲しそうな曲調なんだろう、と永らく思っていた。太平洋戦争と関係があるらしい、と知ったのはつい最近のことだ。
『今年六十のお爺さん』という歌詞は、当時はなんとも思わなかったが、今の夫の年齢と同じだと思うと笑えてしまう。

随分前に、レコードもプレーヤーも処分してしまったと母から聞いた。
レコードのホルダーの絵柄なんかはもうすっかり忘れてしまっているが、楽しく歌った記憶はしっかりと残っている。
妹は今では音楽とはほぼ無縁の生活を送っているが、ふらっとクラシックのコンサートに出かけることもある、と言っていた。結構好きらしい。
私は音楽から沢山の出会いと喜びをずっと貰い続けている。これまでもこれからも、音楽なしの生活は考えられない。
音痴な父の音楽教育?は、それなりに功を奏した、と言えるのではなかろうか、と思っている。







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