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椅子の代金

今、我が家の財布からはお金に羽根が生えて飛んで行っている。子供が引っ越しし三月から新しい部屋に住んでいるのだが、前の部屋に備え付けだった食器・家具・家電類が今度はエアコン以外何一つない為、全てを揃えなければならないのだ。
「あのー冷蔵庫買いましたので、お金お願いします…」
などという遠慮がちなLINEが入るとはいはい、と一人で呟きながら口座にお金を入金する日々である。

先日は
「椅子を買いたいんですけど…お金いくらくらい出してくれる?」
という質問がきた。
椅子の相場などよく知らないが、多分ピンからキリまでだろう。さあ、どう返事しようかな、と思った。
一旦は決まった金額を提示しようかと思った。それで返事を書いて送りかけた。でも送信ボタンを押しかけてちょっと待てよ、と思った。
この子は贅沢を平気でする子ではない。先日来次々とお金を要求せざるを得ない状況を申し訳なく思っている様子が、毎回文面からも伝わってくる。そこで、
「お値段はピンキリやねえ。いくらのが欲しいと思ってんの?」
と返してみた。すると、
「椅子って普通は一万円くらい。ちょっと良い奴で二万くらい。もっと良い奴で三万円くらい。ゴージャスなのは十万円くらい。俺は二万円くらいのが欲しいと思ってる」
という返事だった。
昔の私なら、
「贅沢言いなさんな!普通ので十分!」
とまさに有無を言わさない返事をしていたと思う。今回はちょっと考えて、こう返事した。
「あんたはそれが欲しいって言う理由があるんやね?いくらくらい欲しいと思ってる?理由があって必要なら全額出すよ」

子供がどういう考えでその椅子が欲しいと思ったのかは敢えて聞かなかった。まだ親のすねを齧っているとはいえ、もう二十歳を過ぎた大人である。本人の判断を尊重するのが当然だろうという気がした。
本当は子供がもっと小さい時からこういう風に、「本人がどういう考えでその意見を持つに至ったのか」という過程を信じ、受け入れてやるべきだったのだと思う。子供とは言え、一人の人格を持った人間。例えその意見が荒唐無稽なものであったとしても、「そうか、今のあんたはそう考えるんやな」と一旦受け止めるのが親の役割だ。
私は長い間それをせず、
「常識とはこういうもの。子供は親の決めた意見に従うもの。社会経験のない子供の意見は親の意見に劣るもの」
という考えをずっと押し付けていた。それが躾であり、教育だと思い込んで子供の意見を封じ込め、思考を停止させていた。
結果、子供に迷惑をかけてしまったことは、悔やんでも悔やみきれない。
だが後悔先に立たずだから、過ぎ去ったことはもういい。いつからだって自分の育てなおしは出来る。私が変われば、子供も変わるのだから。

子供からは少し時間をおいてこんな返事が来た。
「この前からお金出してもらってばっかりやし、悪いと思ってる。普通の椅子よりは高価やと思うけど、レポート作成とか長時間座らんとあかん時は前みたいに椅子が粗悪やと結構キツかったから、これが欲しい。だけど普通の椅子でも座れんことはないから、一万五千円だけ出してくれるか。足が出た分は自分のバイト代から出すから」

親を謀れるような子ではない。それは親である私が一番よく知っている。よくよく考えた上での返事だろう。
「了解。あんたがそれで良いなら入金しておくわ」
と返したら
「本当にいつもありがとう」
という返事があった。
その言葉に何の裏もないことを、私はよく知っている。

たかだか一万二万の話である。だが、こんな小さなことも大切に、自分はどうありたいか、自分にとって違和感のない意見はどういったものか、をじっくり考えてみる。
その姿勢は言わなくても子供に伝わっているだろう。