墓場まで持っていくのは

今から二十年ほど前、子育て中に感じる強烈な無力感と自己否定感に、私は随分悩まされたものだった。一生懸命になればなるほど、その度合いは増した。
渦中にいるときはその原因が全て自分の責任で、そう考える自分は愚かな人間で、そんな自分を伴侶として得た夫は不幸で気の毒な人で、そんな私を母親として多くの女性の中から選んで生まれてきた我が子はなんて不幸でかわいそうなんだろうと、心のどこかでいつも思っていた。大袈裟な話ではない。

その考え方が自分の育った環境からきているということに気づいたのは、実は結婚するよりずっと前だった。そして、ずっとその環境を作った親を恨めしく思いながら、自分の本心に反してうわべだけで「親を大事に」していた。
不安はあったけど、世の中の人はみんなこんなもんなんだろう、段々親になっていけるのかも、と淡い期待を抱いていたのであったが、現実はちゃんとそうなって当然の結果を導き出した。

結婚した当初から、夫には自らの抱える生きづらさと、思い当たるその原因について話していた。夫自身もパニック障害を引き起こした事をきっかけに、自らの生い立ちについて振り返って考えた経験があり、関連する書籍を貸してくれ、非難することなく話を聞いてくれた。
そういう話をする時、私はいつも最後に、
「私さえ我慢すれば、良いんや。両親に対する遺恨は墓場まで一人で持っていく」
と言って泣いていた。だが夫は、
「持っていったらあかん。持って行けないものや。喧嘩になってもええから、両親に胸の内をちゃんと伝えろ。ちゃんと終わらせろ」
と私を説得しようとした。
しかし私は夫の言うことに耳を貸さず、妙な意地で初志貫徹しようとしていた。
本当は怖くて逃げていたのである。

まず、「自分が正しい」という主張を受け入れてもらえる自信が全くなかった。誰に受け入れてもらえなくとも、自分が正しいと思えばそれで正解なのだと、今でこそ普通に思えるが、当時はそうは思えなかった。
正しさの基準は「親がどう思うか、世間がどう思うか」であり、自分はそれに一生懸命合わせていた。
だから、受け入れてもらえなければ一人路頭に迷うような気がして、心細く不安だった。

次に、親の望まないことをすることに対して課される、ペナルティが怖かった。
幼いころの厳しい身体的躾のトラウマは、両親との間のすべてを洗い流したと思える今でさえ、潜在意識の中で私を苦しめることがある。これはおそらく死ぬまで消えないだろうと思う。それこそ墓場まで持っていくものである。
病気をすれば大きなため息をつかれ、迷惑そうな顔をされ、どんくさいと言って度々笑いのネタにされたことも、悪気のなかった両親の記憶にはもうないと思うが、心のコントロールを自分でできなかった子供時代の私には十分な辛い記憶となっていた。
私は親に迷惑をかける、ダメな子供なんだ、という思いがずっと自分の中にあった。

のらりくらりと親との、いや自分を取り戻す為の自分との対決を避け続けたものの、そううまくは行かなかった。いや、上手くいかないのが当たり前だったのだと思う。ウチの家族にひずみが出た。
こうして長い時を経て、否が応でも両親と対峙することになった。それは強烈な痛みを伴ったけど、やってみたらとても身軽になった。その後の自分自身を取り戻す作業は、言葉で言い表すのが難しいくらい大変だったけど、自分の育児を自分でするようなもので、50年分の育児を半年でやったらめちゃくちゃスッキリした。
スッキリしたら両親との関係がちゃんと対等になった。対等になったらウチの家族のひずみが治った。ひずみが治ったら、私が前を向いて歩けるようになった。
人生って面白い、と素直に思えるようになった。

50年もかかったのか、と言うことも出来ようが、過ぎ去った時間を嘆くより、生きている間に気づけてああ良かった、という気分である。明日終わる命であったとしても、命の消える瞬間まで楽しんで生きているつもりなので、過去なんてどうでもいい。過去から学ぶことはあるだろうが、執着することは全くない。
どんな過去であっても、それがあって今の自分がある。受け入れるも何も、事実だからしょうがない。変えようがない。だから気にしない。

今はなんでも裏返さず、フラットにみられる。何があっても「あ、そうか。でもまあいいや。何とかなるわ」と常に思っているので、自分で自分の行動に制限をかけないから、楽でいい。何でもできる。何をしても良い。
要するに自分を縛っていたのは親でも世間でもなく、「自分自身」だったということに気づいてからは、誰かを恨むとか、妬むとか、憎むとかそういう感情はほぼなくなった。そういう感情を持つのは時間の無駄。そんな感覚をぼんやりだけど持っている。これから先、後戻りすることもあるかもだけど、まあそれもありだろう。

私が墓場まで持っていくのは、良い人生だったなあ、という思いだけに決まっている、と軽ーく思っている。