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心の整え方

私も人間なので、気分の上下は普通にある。
上に行くのは行き過ぎない限り良いのだが、下に下がるのは出来れば下がり過ぎない程度に食い止めたい、と思っている。
以前の私は感情に振り回されていた為、気分が下がってくると嫌なことが立て続けに起こる気がして、わさわさと落ち着かなかった。そこから来る不安が私を時には異常な臆病者にし、また時にはイライラと攻撃的なヒステリー女にした。
臆病者でも、ヒステリー女でも、自分が惨めな姿であることに変わりはない。そんな惨めな己の姿を自認することは、当たり前だが自尊心を損なう。必然的に益々心は乱れていく。
今日はなんだか気分が暗いな、と思ってもその原因を自らの中に探すことを真剣にせず、誰々がこんなこと言ったから、とかあそこの店員が嫌な態度を取ったから、などと全部他人のせいにして、自分を棚の上に上げていたのである。
これでは延々とイライラし続けるだけで、なんの解決にもならない。

数年前、敬愛するなほさんに、自分と対話する良い方法を教えてもらった。
自分のお気に入りのノートに、自分の感じたことをそのまま書き出すのである。
例えばこんな感じである。
『今日は夫と喧嘩した。だって高圧的に物を言うんやもん。私は家来じゃない!もうキライ!』
良いとか悪いとか関係なく、誰がどう思うか考えず、思ったことをそのまま書く。
そしてちょっと書いたことを眺めてみる。するとちょっと頭の中が冷静になって、色々考えだす。その過程も引き続き、書いていく。
『どうして夫はあんなに高圧的なんやろう。お母さんにも結構ああいう感じの物言いするなあ。ああいう言い方しか出来ないのかな。でも、普段は別にあんな言い方せえへんよなあ。私に対して、憎いと思う気持ちを持ってないことは分かるねんけどなあ。あの言い方が嫌やなあ』
するとここで、『夫なんてキライ』という気持ちは『時々言い方が高圧的なのが嫌』と、より具体化されている。嫌いなのは言い方であって、夫そのものに対する信頼はあることを認識できる。

すると頭はもっと冷静になっていく。
『高圧的ってことは、『オレの言う事きいてくれ』ってことやな。結局、夫は我儘なのかもしれない。でもあれだけ必死になって言うけど、本当に心から「オレこそが正しい」って思ってるんやろか。私の意見に同意したくなくて、言ってるだけじゃないのかな。
私は「家来じゃない」って思ったけど、自分を家来と思ってるのは私の方だけじゃないのかな。夫はきっとそんなこと思ってないよなあ。私の心に、自分を家来と見る、卑屈な根性が巣食ってるってことじゃないのかな。じゃあ私を「家来」にしてんのは私、ってことか』
ここまで書くと、もう完全に頭は内観モードである。感情はすっかりなりを潜めている。

どうなったら嬉しいか、考えながら続きを書く。
『このまま、喧嘩してても埒が明かん。時間が過ぎるのに任せてうやむやにしたら、またおんなじことが起きるやろう。
喧嘩腰じゃなくて、ちゃんと話をしよう。「私は○○って思うけど、あんたはどうなん?」って落ち着いて話してみよう。そこでプンプン怒って返事しない人じゃないわ。ちゃんと話出来たら嬉しいな。妥協点はきっと見つかる。どっちもおかしなこと言ってるわけじゃないんやから』
この時点で、心はかなりスッキリしてしまう。

話し合いが上手くいったと仮定すると、その後もこんな事を書くようにしている。
『ああ、やっぱりちゃんと話して良かった。夫もちゃんと考えてくれていたんだな。言い過ぎたことも悪かったって謝ってくれたわ。嬉しかったなあ。
自分からは言い出しづらかったんやな。あの人らしい。
色々考えていてくれてありがとう。謝ってくれてありがとう。
こういう風に話して解決できるようになるなんて、私も成長したな。なほさんのお陰やな。なほさん、ありがとう。私は人の縁に恵まれているなあ。私は幸せやなあ』

傍から見ると、随分お目出度い、変な自己満足の、幼稚で薄気味悪い書き散らしにしか見えないかも知れないが、私はこの一連の作業をするのとしないのとでは、心の整い方が大違いなのだ。
単に頭の中で思っているだけではなく、自分の考えた事を『書き出して眺める』ということがとても大事である。眺めて、あらためて味わうことで、自分の心の中で起こっている出来事を、冷静に、客観的に分析することが出来る。
すると感情に振り回されるヒマなんて、なくなってしまう。心が凪いでくる。誰彼への感謝の気持ちは、自然に湧いて出る。それも書き留めて眺め、しっかり味わう。

なんだか心が疲れてきたかな、と思うと必ずする、私の心の整え方である。