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蚊の気持ち

我が家の玄関にはいつの頃からか、一匹のハエトリグモが棲み着いている。大きくはなく、目の悪い私は時折埃と間違えてつまもうとして、ぴょんと飛びはねられてびっくりすることもある。
家の中は外敵に襲われる危険は少ないかもしれないが、餌も少なかろう。上手く捕まえることが出来た時には、必ずドアを開けて外に出してやることにしている。
しかし、何日か経つと不思議なことにまた彼(彼女?)が玄関で飛びはねているのに出くわす。あれ、また入ってきている、折角出してやったのに、と肩を落として小さくため息をつきながら、小さな彼の姿を手中に収めようと躍起になる。彼は小さい上に素早いので、なかなか捕まらない。靴箱の後ろなどに入ってしまうと、まあいいわ、次見かけた時に出してやろう、と諦めるしかない。

彼は何故か玄関以外の場所では見かけない。玄関と言うのは家を出入りする時と掃除の時くらいしか通らないので、その時に彼を見かけなければ存在を忘れてしまう。
すっかり彼のことが記憶から消えた頃に通りかかると、彼が遠慮がちに少し跳ねている。ああ、やっぱりまだ居たのか、と思う。知らず知らずのうちに何故か入ってきているのだから、同じ様にして出て行ってくれるものと念じていても、やっぱりずっと出て行かずそこに居る。
結局、前と同じ滑稽な捕物を繰り広げる羽目になる。

彼はどうしてウチの玄関に棲みついているのだろう。雨風はしのげるし、気温は一定で住みやすいことは間違いなかろう。が、餌は外より圧倒的に少ない筈だ。外敵がほぼいないとは言え、どうして我が家、しかも玄関限定で棲みついているのだろう。どうして出しても出しても入ってくるのだろう。
本当に不思議だ。
私は大の蜘蛛嫌いである。蜘蛛の習性については、全く知らない。彼はもしかしたらせせこましい、こういう空間が好きなのかも知れないとは思うが、推測の域を出ない。

この前、蚊に刺されなくなる画期的な塗り薬が開発された、というニュースをやっていた。その時、メーカーの開発担当の方が仰った言葉に私は衝撃を受けた。
「この薬を塗った所に着地しようとすると、蚊はツルっと滑ります。その瞬間、蚊はきっと『底なし沼にハマったような気持ち』になり、大変慌てるでしょう。そのまま飛び立ってしまいます」
蚊の足は実はまっ平ではなく、皮膚に引っ掛けて身体を安定させるような構造になっているそうだ。このメーカーはそこに着目し、蚊の足が「皮膚に引っかからない」ようにツルツルさせよう、と考えたらしい。
結果、蚊が着地しようとすると足を滑らせてしまい、血を吸うどころではなくなって飛び去ってしまう、という塗り薬が開発されたそうなのである。
殺虫剤はあまり多用すると人体に良くないのは勿論、『耐性蚊』といって殺虫剤で死ににくい種が出来てしまうそうだ。この塗り薬はそういった心配がないのも素晴らしい点の一つだ、と紹介されていた。

蚊が『底なし沼にハマったような気持ち』って、どうやってわかるんだろう。蚊が『慌てる』って、どんな感じなんだろう。可笑しくなってしまった。
マンガだと、ビクッとして汗をいっぱい出している蚊の様子を想像できるけれど、本物の蚊がそんな気持ちになるのを想像できるって、凄いなあと純粋に感心した。研究を突き詰めると、ひょっとして蚊の気持ちまで分かるようになるのかもしれないな、と思った。

私は大の蜘蛛嫌いだし、彼の気持ちを推し量ることが出来るほど、彼の生態や習性について詳しくない。ただ、涼しいからかな、とか外敵が少ないからかな、とかそんな風に推測するくらいがせいぜいだ。
朝起きてきて、シンとした玄関でぴょんと彼が跳ねるのを見ると、あーあ、またか、と思う。蜘蛛は嫌いだけど、あの彼は一体どんな理由でウチの玄関が好きなのだろう、といつも気になっている。
彼と話が出来るなら、一度理由を訊いてみたいものだ。