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正しさは時に刃

私には大変親しくさせてもらっている母娘がいる。どちらとも気のおけない話ができるし、冗談だって言い合える間柄である。

この母娘が最近とてもギクシャクしている。二人がかわるがわる私に相手の悪口を言いに来る。残念だなあと思いながら聞いている。

原因はいくつか考えられる。
母親が高齢になってきた事が先ず主たる要因であろう。この家のご主人は健康ではあるが、もう足元がかなり覚束ず、風呂はヘルパーさんの助けを借りて入っている。
そんなご主人の様子は母親を不安な気持ちにさせているのだろう。もう気晴らしに外出もままならない母親は、娘に不安と不満をぶちまける。そんな事をしたって、問題は解決しないのに。
私にも話してくれて良いよ、とは伝えているのだが、やはり血の繋がった娘の方が言いやすいとみえて、被害者は専ら娘さんである。

娘さんは母親の勝手な振る舞いに、歳のせいだとはわかっていてもついイライラしてしまう。声を荒げてはいけない、この人も寂しくて不安なのだ、とわかりすぎるくらいわかっているのに、うるさい!と言ってしまう。
母親は甘えさせてくれない娘に失望して嘆き悲しみ、不安を増殖させ、怒る。
娘はべったり甘えてくる母親に年齢を感じて寂しくなり、悲しくなり、実際に自分の生活に支障をきたしてイライラし、母親をなじる。
娘さんは丁度私と同年代で、更年期真っ只中である。更年期障害の症状が重く、酷い時は朝から何もできず横になっている事もあるそうだ。
そんな時でもお構いなしに自分の不安をぶつけてくる母親に、優しくしなさいと言っても無理だろう。

この母娘を見ていると、とても似ているなあ、と思う。
二人共、『自分が絶対に正しく』『周りは自分の意見に従うべき』だと固く信じて疑わない。

『正しさ』は各個人の中にのみあり、誰も強制できるものではない。
例えば倫理的には『人のものを盗ってはいけない』。しかし、『困ったときは盗ってもいい』『いっぱい持っている人からは盗ってもいい』と言うふうに考え、それが『正しい』と思う事は個人の自由である。
法律に違反しているとか、倫理的に間違っているとか、反社会的だとかは別次元の話なのだ。
考えるだけでは誰も罰されない。

この母娘は二人共この点が腹の底からわかっていない。
お互いの『正しさ』を主張して、相手が譲るまでいがみ合っている。そしてどちらも譲らない。
それぞれの『正しさ』をお互いが認めさえすれば、『自分の正しさこそが正解である』と言って相手に押し付けることさえしなければ、何も問題はおきないというのに。
二人共とても良い人なのに。

娘さんは
「あー私、あんな人に似なくて良かったあ。ホンマにちっとも似てへんわあ」
と言って私に同意を求めてくる。が、私は嘘をつくのが嫌だから、曖昧にぼかしている。
母親は事ある毎に、
「あんな娘、私の娘と思われへんわ」
と言うが、私はサラッと
「よう似てはりますやん」
と返している。

譲歩の二文字はこの二人にはない。
自らを落ち着いて顧みて、自らと対話する事も出来ていない。
そこもそっくりである。

最終的には、娘を頼らざるを得ない母親が折れる事になるのだろう。
だがその場で母親を屈服させたとしても、娘さんには後悔が残るに違いない。そしてその後悔は後々まで娘さんを苛み、益々イライラする事になっていくだろう。
娘さんは結局、自らの発言で自らを苦しめる事になるのだ。

二人共良い人だから、とても惜しい。出来ればいがみあわないでほしい。
だが人の心は変えられない。
他人の私は黙って成り行きを見ている事しか出来ない。

母娘がお互いの『正しさ』を尊重するという、唯一の解決策に気づく日はいつの事になるだろう。
そう遠くない未来だと良いのだが、私は楽観していない。