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判で押す

私は判で押したように同じことを繰り返すのが大得意である。根気が良いと言えば聞こえはいいが、行為の意味を深く考えていない、と言えば心のマヒした機械みたいな人間、ということになる。

朝一番のレジでの仕事は、ある程度マニュアル化されている。それをなるべく労少なくして短い時間で終了させるのが、私の小さなやりがいである。全てを恙なく終えるとホッとした気持ちと一緒に、小さな小さな満足感を味わうことが出来る。
どうしてこの作業が必要なのか、なんて考えたことはない。ただひたすら与えられた仕事を、こうやって、次はこうやって、と流れを作ることに集中している。

休日には必ず、近所の神社まで歩いて片道三キロほどの道のりを散歩する。これは働き出してからずっと、体調が悪い時や用事がある時以外は続いている。もう五年近くになるだろうか。
まだ関西に居た頃『良性発作性頭位眩暈症』という、名前は厳めしいが症状としては軽い病気になった時、耳鼻科の先生から定期的な運動を勧められたのがきっかけである。更年期はカルシウムを体内に留めておくホルモンが不足しがちで、骨粗鬆症などを防ぐには定期的に運動をした方が良い、と言われたのだった。
だから参拝することそのものに意味はない。運動がてら、神仏に感謝の意を多少なりとも届けられれば、というくらいの軽い気持ちだった。神社は単なる目標地点である。罰当たりかもしれない。
あれ以来、眩暈は起きていない。散歩のお陰か、参拝のお陰かは分からない。来月の健康診断がちょっと楽しみ?である。

風呂上がりのストレッチも欠かさない。といっても風邪になったりするとしばらくの間身体が固いことがあるので、そういう時は無理をしないようにしている。
これは今お世話になっている整体の先生に勧められたのがきっかけである。肩甲骨のコリが酷い、毎日ちゃんとほぐした方が良いですよ、と言われた。以来、毎晩続けている。肩こりはあるけれど、頭痛を引き起こすほど酷いのはそうそうなくなった。定期的に先生のお世話になってはいるが、絶不調の日は少ない。有難い。効果はあるのだろう。

クラリネットの基礎練習も、飽きるほど毎日続けている。ロングトーン、スケール、エチュード。当たり前だけど、この順番を変えることはない。カラオケボックスを予約し、一日二時間~三時間をこれに費やす。
基礎練習は『これをやれば上手くなる』というものではなくて、『調子を整える』とか『技術を確認する』とかいう為のものだと思う。だから別にやっていても面白くはない。でも時間が来ると、私の足は嫌がることなくカラオケボックスに向いてしまう。
年齢と共に衰えは感じるけれど、おかげで今のところ、なんとかみんなについて行けている?ようだ。

どれをとっても面白くもないし、凄い目標がある訳でもない。目に見えて素晴らしい効果が出ている訳でもない。こんなことを続けられるって、私は精神的にややおかしいのかな、と思うこともある。
どの行為のきっかけも『他者から与えられたこと』で、自発的なものではない。その他者からのアドバイスになんの疑問も感じず、すぐに納得し、ハイハイと従う自分ってどうなんだろう、と時々思う。
心に蓋をしていた期間が長いから、漫然と他者の言いなりになって繰り返してしまうのではないか、自分の判断が不要で、楽だと感じてしまうのだろうか、と思わないこともない。

どれも極端に大変なことはしていない。簡単にできる、ささやかで小さなことばかりである。特に好きで堪らないことでもない。やらされている感はないが、自分で自動的に自虐スイッチを押しているような気がする時もある。
果たして私は今、本当にこれがしたいと思っているのだろうか、とボンヤリした疑問がわくことも少なくない。

しかしこれらの行為全てを済ませた時、私の心に『今日もよく頑張りました』と自分を褒める自分の声が、ちょっとだけ聞こえる。この声が私を気分良くしてくれる。究極の自己満足でしかないが、この声が聞きたくて、私はこれらの行為を毎度毎度、やっているのだと思う。
他者からの褒め言葉が欲しいと思ってしまうと、目標設定が時に厳格になる。自分だけの、ユルイ目標設定だと達成するのは簡単だし、自分が喜ぶ頻度が高くなる。
これからもゆるゆる本気出して、判で押したように続けたい。