『不潔』事件
姑は舅のことが大好きである。自分からそんな事を言う訳ではないが、見ていればわかる。
一方、舅が姑をどう思っているかはよくわからない。昭和一ケタ産まれの旧い人だし、そういう事を表に出さないのは舅の性格でもあると思う。
いつだったか随分前の話である。
帰省していた私達に舅が、
「実はお母ちゃん(=姑)が怒ってしもて、口きいてくれへん。どないしたもんかと思うとる」
と困り果てた様子で相談してきた。
そこで、その場にいた姪っ子と夫と私で舅の話を聞く事になった。
舅は足が達者だったその頃は活動的で、滅多に家でじっとしていなかった。落語やコンサートや旅行、講演会などにしょっちゅう参加していた。家でじっとしているのが好きな姑とは正反対だった。
よく行っていたのが地元新聞社主催のカルチャースクールである。歴史上の人物に関する講義など、安くて面白くて楽しいのだ、と話していた。
舅はここで一人の老婦人と知り合った。
夫に早くに先立たれて一人暮らし。上品で物静かで、口数の少ない人だったそうだ。
知的な彼女は本好きの舅と話が合い、時折昼食を一緒に食べたりするようになったという。
舅にとってこのご婦人は、多勢いるうちの『友人』の一人、と言う認識である。
当たり前だ。当時舅は80歳くらい。今更色恋沙汰でもあるまい。誰が聞いてもそう思うだろう。
まあ舅だって男性と会うよりは嬉しかったかも知れないが、せいぜいその程度で収まる話だ。
が、姑は違った。カルチャースクールのご婦人の話を舅から聞くなり、
「お父ちゃん(=舅)は不潔や!裏切り者や!」
と言って子供のように大泣きし、それ以来舅と口をきかないのだという。
姪は笑いすぎて泣いていた。私も堪えきれずずっと笑っていた。夫はニヤニヤしながら
「で、ホンマはどうやねん?」
と舅に先を促す。
「ホンマも何も、この歳でどないもしてへんがな。後ろ暗かったら、お母ちゃんに言うかい。もう大弱りや」
舅は真剣に困っていた。が、私と姪にとっては笑いのネタでしかなかった。
結局、夫の仲裁により舅が姑に『気分を害した事』を謝り、姑は渋々それを受け入れた。
が、自分に悪気がない舅は謝る事そのものに納得がいかない。姑は姑で、『自分以外の女性と仲良くした事』に対して謝ってくれない舅にまだ苛立っている。
二人はかなり長い間、ギクシャクしていた。しかし見ているこちらにとっては滑稽にしか見えず、二人には悪いがおかしかった。
「おばあちゃん、乙女やわあ」
姪はそう言ってずっと笑っていた。
夫も私も
「なんのかんのと仲が良いんや」
「おじいちゃんも色男やわあ」
と笑い合っていた。
今は舅はどこへも出歩かず、家で過ごす。姑もヤキモチの焼きようがない。ちょっと残念な気がする。
80を過ぎても夫の女の友人に嫉妬できるなんて、姪が言うように姑は『乙女』だと思う。ちょっとオーバーでやり過ぎな感じはするが、純粋で滑稽でかわいい気もする。
姑にとって舅はとても愛しい人なんだなあ、と思わされた出来事であった。
自分だったらきっとこうはならない。
確かに良い気分にはならないが、お互いそういうこともあるだろう、と軽く流すと思う。いちいち嫉妬なんて感情はわかない。
そもそも私は、誰かにそこまで執着を覚える事は未だかつてなかったような気がする。
舅と姑はひょっとしたら、思い思われる、幸せな夫婦なのかも知れない。