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お母さんはご機嫌ナナメ

またこのシーズンがやって来た。
オリンピックである。
ニュースは連日幾つ何色のメダルが取れたとかなんとか、騒いでいる。
友人の中には、『昨日はテレビにくぎ付けで、夜更かししてしまった』と嬉しそうに話す人も結構いる。
いつも見ているドラマや音楽番組は休止。オリンピック中継の為だ。
いつものことだ。

いつものことだからしょうがないんだけど、私はこの時期、毎度毎度猛烈にうんざりする。
スポーツが嫌いなのではない。一生懸命目標に向かって地道な努力を続け、最高の舞台で結果を出そうと奮闘している選手たちは、本当に尊敬する。
夫などはこの時期を毎回大変楽しみにしていて、テレビに夢中になっていることもある。
バレーボールや卓球の時は『あんたは会場に居るんかい』と訊きたくなるくらい、熱い声援を送りつつ興じている。
別にそれは良い。楽しみ方は人それぞれなんだし、自由なんだから。

でも報道を観ていると、どうも違和感を感じることがある。
『〇位入賞』っていうと、『メダル獲得』に比べて極端にアナウンスが少ない。
大勢の選手の中から代表に選ばれて、世界中の選手と競っての成績なんだから、もっと『おめでとう』って言っても良いんじゃないか、と思う。
何もメダル取った人だけが優れているんじゃないんではないの、というモヤモヤした気持ちが胸の中で燻る。
多分私は『メダル至上主義』的なものを感じて、反発を覚えているんだろう。
それは自分が『もっと上、もっと上を目指しなさい』と親に尻を叩かれて育ったからなんだろうなあ、そして一生懸命努力しても、結果が親にとって思わしくなければ露骨にガッカリされたことに根差しているんだろうなあ、と思う。
ま、モヤモヤの原因はちゃんと自分の中にあることを分かっているから良しとしよう。

世の中が『オリンピック万歳』ムードなのも好きではない。
私はオリンピックなんかより、お気に入りのドラマの続きが早く観たい。
オリンピックは平和の祭典であると同時に、大きなお金の動く一大イベントなんだから、しょうがない。私のような少数派を相手にしていては、経済は回って行かぬ。
けれど『今週の放送はお休みです』ばかり目にすると、オリンピックよりドラマが好きな人間も中にはおるんですわ、と声を大にして言いたくなる。

阿部詩選手が自分が負けて号泣したことを謝罪した、というニュースを観た。
何の話やねん、とこれにもうんざりした。
自分の感情の出し方を、他人にとやかく言われる必要なんてないではないか。泣きたければ泣けばいい、怒りたければ怒れば良い。それをどう感じるかは、受け止める側が自分の問題として処理すべきことなのに。なんで相手に強制するかな!
彼女は頂点を目指して、想像を絶する努力をしてきたんやないか。彼女のプレッシャーの凄いことといったら、きっと私だったら耐えられないだろう。
全てがプチンと切れた瞬間、彼女はきっとああするしかなかったのだ。
結果が伴わなかったことを誰よりも悔しく思ってんのは彼女自身やないか。
それを何?『あの場であんな泣き方をするのはいけない』?『コーチも会場から連れ出すべきだった』?何様やねん。
そんな思考回路を持つ人間がいるんかい。情けねえよお。冷てえよお。
とてもがっかりした。
でもま、それも他人の話だ。私は彼女に心から拍手を送りたいと思っているから、それで良いや。

メダルを獲得した選手の、過去の軌跡を報道するのもなんか違うと感じてしまう。『どうやらこれは視聴者に受けそうだから流そう』というイヤーな魂胆が、ついつい鼻についてしまうのだ。
メディアのお涙頂戴及び安っぽい感動醸成戦略に乗るもんか、とぐっと腹に力を込めてしまう私は、きっと変人なんだろう。
出場選手全員、もしくは同行しているスタッフ一人一人にも、それぞれのドラマがあるに違いない。そこを無視っぶっこいてんじゃねえ、報道する者が勝手に自分の都合で切り取るなあ!と心の中で小石を蹴っている。
モシモシ、そんなに嫌なら観なかったら良いじゃないですか、と自分で自分に言って、苦笑いする。
そうねえ、結局観てんのねえ。我ながら変な奴。

要するに観たい番組が観られなくて、最近の私はご機嫌ナナメなんである。
早くオリンピック、終わってえ~。