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本物のお嬢様

今時はないのかも知れないが、若い頃に働いていた職場では入社してすぐ、一カ月間の新人研修があった。寮に二人一部屋で寝泊まりし、朝から晩まで様々な知識や業界の常識を学ぶ。約百五十人が三つのクラスに分かれ、業績優秀な社員が二人一組で一つのクラスを担当した。
業界の性質上、同期入社の人間の中には所謂『縁故採用』的な人も複数名いた。だが皆優秀で、縁故とは言っても場違いな感じのする者はいなかった。

同じクラスにそういう縁故採用の子は二人いた。一人は某大手老舗菓子店の社長の娘、もう一人は某大手企業の社長の娘、Aちゃんだった。
どちらも優秀ではあったが、菓子店の娘の方は若干ワガママな所があり、「お嬢さん育ちってこういう風になるんだなあ」とある意味諦めをもって見ていた。
そこへいくとAちゃんは大変大人しく素直で純粋で、ニコニコと笑顔を絶やさない。可憐な感じの可愛い子で、同い年の社員ばかりなのにみんなに妹のように可愛がられていた。

ある時、何人かでカラオケに行った。出る時に割り勘をしようということになり、皆それぞれ財布を取り出した。みんなグッチやらヴィトンやら、精一杯背伸びして買ったであろう、身に合わない財布を持っていた。私も例外ではなかった。
だが、Aちゃんの取り出した財布はそういうギラギラしたブランド物ではなかった。どこの物かは私にはわかりかねたが、醸し出す雰囲気がAちゃんととても合っていた。なんとも上品で奥ゆかしく、良質なものであるのが私には一目で分かった。思わずAちゃんに声をかけた。
「Aちゃん、素敵な財布やね!」
するとAちゃんは
「これね、お母様からの就職祝いなの。『もう社会人なんだから、こういうのを持ちなさい』って仰ったの」
小さな白い顔を少し赤らめながら、ニッコリして答えてくれた。
うお、『お母様』が『仰った』のかあ。随分お嬢様だとは思っていたが、そういう言葉がすんなり出てくることにビックリしてしまった。
そしてそう言う言葉を発しても、嫌味な感じが全くないAちゃんは本物のお嬢様なんだなあ、と感心した。

入っていた寮には門限があった。嫁入り前の娘を預かっているからか、大変厳しく、破れば始末書を書かないといけないと言われて脅かされていた。
ある時、講師二人と一緒にクラス全員で飲みに行き、帰りがかなり遅くなってしまったことがあった。講師の命令?で全員でダッシュして、閉門ギリギリで寮に滑り込んだ。五十人が一斉に駆け込んできたから、守衛さんは苦笑いしていた。
私も勿論、息を切らせて皆と一緒に滑り込んだのだが、一息ついて見まわすとAちゃんと目が合った。Aちゃんはニッコリ笑うと、
「楽しいね!私こういうの、初めて!」
と息を弾ませながら言って、赤くなった顔をクシャクシャにした。
おお、門限破りが初めてとは。まずそこに感心した。そして心の底から楽しそうな様子でみんなと笑いあっているAちゃんを見て、こういうのも彼女の『社会勉強』の一環なのだろうか、とふと思った。

Aちゃんの話す『家』での様々な習慣はぶっ飛び過ぎていて、ビックリするようなことばかりだった。
『ばあや』がいる。楽器を習っているが、先生は週に一度『通ってきて』くれる。家族は『お父様』『お母様』『お兄様』と呼ぶ。昭和のマンガのお嬢様みたいで、みんなして弄ったりしていたが、Aちゃんはちっとも嫌がる風もなくいつも大真面目だった。見下す風もなく、のんびりとみんなと一緒に笑っていた。
皇室の方ってこういう感じなのかなあ、と思った。

入社前から、Aちゃんには親の決めた『フィアンセ』がいた。が、本人には全く自覚がなく、
「フィアンセじゃないよ。一緒に家族でお食事したり、二人でドライブに行ったり、映画を観に行ったりするだけなの」
とキョトンとして言うので、
「Aちゃん、そう言うのをフィアンセっていうんやで。『家族でお食事』なんて、お友達とせえへんやろ?」
とみんなで言ったら、顔を真っ赤にして
「え!そうなのかな?!」
と狼狽えていた。
「天然にも程があんで」
と笑われても、
「えーどうしよう。そうなんだ・・・」
と本当に真剣に悩んでいた。その様子もおかしくて、みんなして笑っていた。

きっと今頃は件の『フィアンセ』と結婚して、良いお母さんになっているだろう。純粋で可愛く、でもどこかしっかりした芯のある子だった。
私なんかには遠く縁のない世界に居るだろうけど、会えばきっと
「ミツルちゃん!久しぶり!元気だった?」
とあのクシャクシャの懐かしい笑顔で話しかけてくれる、と確信している。