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いつか言える日が

夫の姉から電話があったのは、つい二、三日前のことである。関西の施設に入居している舅の具合が悪くなり、急遽併設している病院に入ることになった、とのことだった。
非常に心配したが大したことはなく、検査して結果が何ともなければすぐにまた元の施設に戻れるらしい。
付き添ってくれていた介護士さんが、舅の手足の動きにちょっと違和感を感じ、念の為に検査したら異常が見つかった、という経緯らしかった。本人は意識もはっきりしており、普段通りのやり取りが出来る。全く辛そうでもないとのことで、夫と二人胸を撫でおろした。

姉が近くに居てくれて本当に助かった。本来ならこちらから出向かねばならないところである。
入院にはまた施設とは違った準備も必要になるとのことで、姉は暫くは病院を何度か往復せねばならないらしい。また姉に大変な思いをさせてしまう。そうでなくても忙しいのに申し訳ないなあ、と思いつつ、夫と姉のやり取りを聞いていた。

私はこの時、夫の口から当然出るであろう、いや普通は出るだろう言葉を待っていた。
『ありがとう』
の一言である。しかし、
「わかった。ご苦労さん。なんかこっちに出来ることあったら連絡して。ほんじゃあ」
という夫の言葉で、電話は切られた。
目を伏せて、胸の中で『お姉さん、ごめんなさい』とそっと呟いて手を合わせた。

夫に悪気はない。
「ご苦労さん」は上の立場にある者から下の立場にある者に向かってかける言葉であるし、「何かあったら連絡して」は相手を自分の支配下に置いているとも捉えられる。姉も気分が悪かったろう。
言うなら『お疲れ様』『また連絡するわ』が適切だ。そして最後には『ありがとう』を添えるのが当たり前の感覚かと思う。
しかし、夫はこの一言が出ない。
本人はきっと気付いていないだろう。以前は指摘することもあったが、むくれてしまうので最近は黙っている。
むくれるということは、本意ではないということだ。そして言えないということは、心にその言葉が沸き上がってこない、ということである。
感謝の気持ちを持っていない訳ではない。

偉そうなことを書いているけれど、私も数年前まではこの『ありがとう』に心を込めるのがとても苦手な人間だった。
夫と違って、表面的に言うことは出来る。だけどそこに心からの感謝を込めることが出来ない。上っ面だけのお礼になってしまう。
そういう自分が嫌になり、お礼を言った後はいつも大抵、自己嫌悪に陥っていた。
私が『ありがとう』に自然と心を込められるようになったのは、つい最近のことである。

どうして心を込められなかったのか、腹の底からのお礼が言えなかったのか、を考えてみると、シンプルに答えが出てくる。
『腹の底から感謝出来ていなかったから』
に他ならない。
『有難い』は有ることが難しいと書く。本当にそう思っていれば、勝手に口から出てくる言葉だ。言葉と同時に相手への敬意と感謝の気持ちが、自ずと首を垂れさせる。
そしてその前提条件として、『自分がその善意を受けるに値する人間である』という、確信を持っていることが必要である。当時の私にはこれがなかった。
これがないと、感謝は上滑りしてしまう。

善意を素直にそのまま受け取り、素直に感謝する。他者から大切な自分に向けられた愛を受け取ることに喜びを感じる・・・『ありがとう』はそういった心から自然と発するのだが、受け取る自分が相手の行為に何らかの意図を勝手に持たせてしまうと、こんな簡単なことが出来なくなる。そして腹の底からの謝意を述べることが難しくなってしまう。
過去の私のように、外見や体裁を気にする人間ならうわべだけのお礼も言える。しかし夫はこういうものに非常に関心が薄い。そして相手の善意を素直に受け取ることのなかなか出来ない人でもある。
かくして『ありがとう』は夫の口から聞かれない。

きっと夫は心の片隅で『ありがとう』とは思っている。
でもまだまだ自分への愛が足りていないのだろう。自分を『愛されるに値する人間だ』と、深い所で思えていない。だからこの一言が出ない。
夫のせいではない。だから責めるのは違う。
姑の急で関西に駆けつけたいつぞやの大晦日には、それでも夫の口から『ありがとう』が聞けた。以前はなかったことだ。私が変わったことで、夫も変わりつつあると思う。

いつかお互いに心から『ありがとう』を言い合える夫婦になろうね。
死ぬまで成長して行こうね。
そんな思いで台所からコタツでウトウトしている夫を見ている、寒い夜である。