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階下の先生

以前暮らしていたマンションのすぐ下の階に住んでいたのは、近くの公立病院にお勤めのお医者様だった。単身赴任のようでご家族はお見掛けすることはなく、マンション内の駐車場にはいつも他府県ナンバーの大きな車がとめてあった。
私達がそのマンションに引っ越した時、ウチの子供はまだ幼稚園児だったから、走り回ったりして階下に迷惑をかけることもあるかと思い、ご挨拶に伺った。が最初の三か月間、いつ伺っても全くお目にかかることが出来なかった。物音もしないし、本当に住んでいらっしゃるのかなと思うくらいだったが、朝ゴミ捨てに行く時には車はあるのに夕方にはないので、やっぱりお住まいなんだよな、と思ってご挨拶するタイミングを窺っていた。

随分経ったある日、子供を連れてご挨拶に伺ったら、奇跡的にお目にかかることが出来た。お医者様だというのもその時初めて知った。どうも寝てらしたようで、気の毒だった。
うるさかったらいつでも言って下さい、と言うと先生は笑って
「僕、殆どここに居ません。いる時は大抵爆睡していますから、どんな音立ててもらっても平気です。どうぞどうぞ」
と優しく言われて、ほっと安心した。

子供の小学校の入学式に家族で出かけようとしたら、エレベーターで先生と乗り合わせた。
「お、ピカピカの一年生やなあ。おめでとう」
と先生は子供の頭を撫でながら、
「ウチは娘が一人いましてね。もうちょっと大きいんです。あっという間ですよね」
などと夫と談笑していた。
子供が中学生になった頃、先生が背の高い、大学生くらいに見える女性と並んで歩いているところに偶然出くわした。顔がそっくりだったので、ああ、娘さんだろうなあ、と思った。私に気付くと二人揃って、同じように照れ臭そうにひょっこり頭を下げて下さった。娘さんも大きくなられたんだなあ、と思うとなんだかほのぼのした気持ちになった。

ウチの近所では毎夏花火大会があった。私達のマンションの部屋は最高の見物席で、至近距離で花火を眺めることが出来た。
毎年この日、いつもは静かすぎるくらい静かな先生の部屋は、何事かと思うくらい賑やかだった。花火が上がる度に歓声が上がり、大勢が笑ったり喋ったりする宴会らしき声が遅くまで聞こえていた。時折壁をドンドンする音なども聞こえ、我が家では
「先生でんぐり返りでもしてはるんちゃうか」
などと言って笑っていた。
どうも職場の人達を呼んで、みんなで花火を見ておられたようだった。次の日にはまたシーンと違う部屋のように静まり返っていた。
あれだけ飲んで騒いで、次の日は皆さんお仕事なんだなあ、と私は妙なことに感心していた。

一度私が楽団の練習から夜遅く帰ってきた時、駐車場で先生と出くわしたことがあった。冬の近づいた、急に寒い日だった。先生は胸に「Emergency」と書かれた白衣を羽織っていた。今からですか、と私が聞くと、
「こういう日はね、脳の血管がプチンといく人とか、心臓の血管がプチンといく人とかが多いんですよ」
苦笑いしながらそう言うと、先生は足早に車に乗り込み、私に小さくお辞儀をして出て行った。こんな夜更けにつくづく大変なお仕事だなあ、と思いながら見送った。

熊本で地震があった時、先生は永らくご不在のようだった。引っ越されたのかと思うくらいだった。しばらく経って県の広報誌を見ると、先生が県のDMATの隊長として現地に赴いたという記事が載っていて、漸く不在の理由がわかった。
地域の救急センターのセンター長も務められていたし、時折は地元で医療従事者向けの講演会などもなさっていた。
そう言った記事を目にする度、先生お忙しいねえ、と家族で話していた。

マンションの住人は入れ替わりが早く、先生はいつの間にか一番の古株になっていた。
「もう知ってるの在間さんだけですわ」
と笑いながら仰っていたが、先生もとうとう定年を迎えられたようで、公務員の人事異動欄に『退職者』として名前が挙がっていた。
そうこうするうち、先生はマンションからいつの間にか引っ越されていた。当然ウチはご挨拶もせずじまいだった。単身で荷物も少なかったようで、引っ越しの業者なども見かけなかったから、全くわからなかった。
ポストに貼られた『チラシなどを投函しないで下さい』というシールを見た時、やっぱりお引越しされたんだな、とちょっと寂しかった。

殆どお留守だったこともあり、上記の数回しか言葉を交わしたこともない。そんなあっさりしたお付き合いではあったけれど、あったかくて、カッコよくて、お茶目なところもあって、なんだか懐かしく思い出す先生である。