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忘れ物

今日、仕事は休みである。夫をいつも通りに送り出し、お天気は今一つスッキリしないけれど、気温の高さに期待して大物も洗った。掃除や皿洗いも済ませ、さあ昨日の番組の録画でも観よう、とテレビの台に近づくと、青い眼鏡ケースが目に入った。
あ。夫の老眼鏡である。

夫は若い頃から、見えすぎるくらい遠くが見える人である。最近の健康診断でも近視は全くない。が、その分老眼が酷くなりつつある。「どんどん進むから買うのが勿体ない」などと言って百円ショップの老眼鏡でずっとごまかしていたのだが、とうとう耐えられなくなってやっと近所の眼鏡屋で購入したのである。
勿論、私が早い段階から眼鏡屋で買うことを勧めていたのは言うまでもない。しかし永らく夫はなかなか首を縦に振らなかった。自分で納得、いや観念しなければ行動を絶対起こさない天邪鬼の夫のことだから、と諦めて私は事態を静観していた。買う気になったのは、なにか余程困った事があったに違いないが、負けず嫌いの夫は何も言わない。私も訊かない。
いざ購入してみると当たり前だがやっぱり使い心地が良いらしく、夫は上機嫌である。だ、か、ら、早く買いいなって言うたやろ、と心の中でツッコミを入れているが、そんな思いはおくびにも出さず、良かったねえ、良いのが買えて、と終始笑顔で一緒に喜ぶことにしている。
夫婦円満の為にはこういう努力?忍耐?コツ?が必要なのかも知れない。

さて、件の老眼鏡は夫の忘れ物であるのは間違いない。「ないと仕事にならない」と言っていたから、さぞかし困っているだろう。
今日私は午後から楽器のメンテナンスの為、東京へ出かけることになっている。途中、夫の会社に寄り道できないことはない。届けてあげようか、という思いが一瞬頭をよぎった。
しかし、普通に考えて面倒くさい。会社は駅から徒歩十五分はかかる。おまけに私は楽器を二本提げて行かねばならない。結構な嵩と重さである。
オマケに今日もなかなか暑い。歩くとすぐに汗まみれになる。
私の親切メーターの針はここで随分マイナスに振れてしまった。

昔、子供が小学生の頃の話を思い出した。
子供の忘れ物を届けてきた私に、担任の先生が、
「お母さん、今度からはそのまま放っておいてあげて下さい。ご本人が次から気を付けるようになりますから。確かに授業を受けるにはこれがあった方がやりやすいですが、ないことで不便を味わって、次からはこういう風にならない為にどうしたらいいか、ご本人に考えてもらうのも大事だと思いますよ」
と言われて、そうか、失敗させるのもありなんだな、と思ったことがあった。
勿論、失敗したことで本人がしょんぼりしていれば慰めてあげねばならないが、「本人」に「学んでもらう」のが「教育」なんだなあ、と反省した。
私は『良いお母さん』になろうとして、実際はその真逆をやっていた。
当時はそういういろんな匙加減がわからず、子供にも先生にも迷惑をかけたなあ、と懐かしかった。

今の私は『良い妻』になろうともしていないし、そんなことしなくても十分『良い妻』だと胸をはって言える(現実を夫がどう思っているかは知らない)。単に『困っているであろう夫を可哀想だなあ、と思う気持ち』で老眼鏡を届けてあげようかと迷っていた。
でも、考えてみれば夫も子供と同じだ。自分で懲りれば、次から工夫して忘れないようにするだろう。ここで届けると後々夫の為にならない。よし、届けないことにしよう。近所の百円ショップで買うもよし。大人なんだから、なんとかするだろう。
これも教育?サポートし過ぎない事も夫婦円満の秘訣?
いや、私がしんどい思いをし過ぎないこと、これこそが夫婦も家庭も全ての人間関係が上手く行く秘訣なのだと思っている。
帰ってきたら、夫はいかに不便だったかを語ってくれるだろう。黙って笑いながら聞くことにしよう。
置き去りにされた老眼鏡には、窓から入った陽の光が少し当たっている。