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手編みのミトン

小さい頃から酷い冷え性だった。特に酷かったのは手足の指のしもやけである。程度の差こそあれ、無事な指は一本もなかった。親は心配して色々試してくれたが、結局中学生になるまで毎冬こさえていた。
私が小学校低学年の頃、校舎はまだ木造で床拭きはモップではなく、雑巾を使って手でやっていた。バケツに水を汲んできて雑巾を絞り、何人かで横一列になってせーの、で教室の床を拭いていくのである。
膨らみ過ぎたしもやけがあちこちパックリ割れて血が滲んでいた私も、みんなと同じようにその作業をやっていた。痛いというより冷えすぎて手の感覚がなくなり、掃除の後はしばらく自分の手ではないみたいだった。
割れた傷口には、床掃除で出た砂粒や泥がバケツの水に手をつける度に入り込み、時には手を洗っても取れなかった。石鹸を使えば沁みた。
暖かくなるのが待ち遠しかった。

通学の際、同級生は五本指の手袋をしている子が多かった。サンリオやアニメのキャラクターが甲の部分にプリントされているものが多く、賑やかな色味で指と甲が違う色だったりして、女の子としては嵌めてみたいものだった。
が、五本指手袋は指の部分がぴったりとタイトになっており、しもやけでパンパンになった私の手には合わないことが子供でも分かっていた。手も動かしやすいし、色んなデザインがあるし、嵌めたいなあと思いつつ諦めていた。

母は手芸全般が得意で、セーターや手袋もいくつか編んでくれた。手袋は私のブクブクに膨らんだ手でも容易に着脱できるようにいつもミトン型で、ちょっと大きめだった。なくさないように両手を毛糸でつなぎ、縁や先に飾りを付けてくれ、甲の部分には赤い毛糸で小さなハートマークがいくつか刺繍してあった。
嬉しくないことはなかったが、みんなの持っている可愛いキャラクターものとの違いに随分落ち込んだ。でも正直にそれを言うのは一生懸命編んでくれたお母さんに悪い、と思って「しょうがなく」嵌めていた。
親にはっきりものを言える子供なら、こんなの嫌、ダサい、と言って拗ねていたのだろう。私はそれが出来ない子供だった。

編むといっても新品の毛糸を買ってくることなどなく、母は大抵は古くなった家族のセーターをほどいた糸を使っていた。このほどく作業はとても面白くて「手伝って」と言われると、ラーメンのように縮れた毛糸を両手にグルグル巻き付けて大喜びではしゃいでいた。
ほどき終わって綺麗に玉にされた毛糸は、母の手によって段々手袋になっていく。出来上がった手袋を嵌めるのはあまり嬉しくはなかったけど、その作業を見ているのは面白かった。
コタツに入ってみかんを食べたりしながら、母の手元をじっと眺める。時々毛糸の玉がコタツ布団の端とか何かに引っかかって、上手く解けなかったりすると母が「ちょっと転がして」と言う。
言われるままに毛糸玉を転がすと、また毛糸が少しずつ母の手元に吸い込まれていって、少しずつ編地が出来上がっていく。
この間多分何か母と喋っていたのだろうが、その内容に関しては全く記憶がない。
ただセーターをほどいて玉にして編んでいく、というこの一連の作業の流れだけが、とても面白かった記憶として私の中に残っている。

長じて母とは色々確執もあった。こういう幼い頃の思い出すら、煩わしいものとして蓋をしたい気持ちにもなった。
お恥ずかしい話だが「お母さんは自分が満足する為に私に世話を焼いていたんだ。鬱陶しい!腹立たしい!私を愛してなんかいなかったんだ!」なんて不遜な悲しい考えを持っていた時期もある。
「母自身の為」というのはある意味で当たっていたのだろうと思う。が、もうそれを疎ましく思うことはない。今はそれが母なりの「愛」の形だったのだ、と言うことを理解できているからである。

寒さが厳しくなってくると、コタツに入って母が手袋を編む様子をじっと見ていた冬の日を時折懐かしく思い出す。