今私に出来る事
誰かが亡くなったという報に接した時、すぐに『悲しい』『残念だ』という感情を素直に出すことが出来ない。亡くなったという事実を受け入れるのに時間がかかる。故人が自分と所縁の深い人かどうかは関係がない。だから恩師のA先生の時も、叔父の時も、連絡を受けた時は驚いただけで、感情が湧いてくるのに暫く時間を要した。
以前はそんな自分を欠陥人間のように感じて後ろめたかったが、今は『自分がその人の死によって傷ついている事を受け入れたくないという気持ちが自動的に働いてしまう』のだろう、と思っている。
つい先日のタレントさんの死も、ニュースをみた時は非常に驚いたが、そんな感じだった。
私はあまりテレビを観ないし、どんな方だったかはあまり知らない。が、訃報に接した時、いつだったか、偶然ラジオで聴いた阿佐ヶ谷姉妹と故人のやり取りを思い出した。
内容はうろ覚えだが、自身のお子さんに関するお話だった。子育ての色々についてお悩みなどを語っておられた。そこには親としての実感が溢れていたから、私も共感できる部分が沢山あった。『最近のタレントさんはちゃんと子育てするんだなあ。若いし仕事しながら忙しいのに、偉いなあ』と素直に思えた。
故人について知っているのはただそれくらいである。普段どういう発信をしておられたのか、どういう経緯があったのか、は知らない。
が、あのラジオ番組で故人の語った内容には『嘘』が全く感じられなかったから、私はそれ以来好きなタレントさんの一人として、ぼんやりと認識していた。
この方の死の翌日も翌々日も、近隣の電車のダイヤはあちこちで乱れた。原因は言わずもがなである。
ギリギリのところで此方に踏みとどまっていた方が、この一件で背中を押されて彼方に旅立つ決心をしてしまった、という事だろう。悲しいことである。
この件を『一芸能人の死』として騒ぎ立てる者、それに同調する輩なんぞはいつの時代にも存在するので、そんな人たちにやれ「報道が過熱し過ぎ」だの、「コメント削除なんて卑怯だ」だの、勝手に言わせておけば良い。興味本位の報道をしながら、いのちの電話の番号を伝えるなんてマッチポンプ的なことをしている報道もあったが、こんなのは相手にするに値しない。
その選択をした理由は、故人にしかわからないのだから。
何故こんなことが繰り返されるのか。
かけがえのない命がこんな風に突然失われるという事は、絶対にあってはならない。
私に出来ることは何だろう、とあの日以来ずっと考えている。
『後悔先に立たず』という諺がある。
何かをしてしまった後で悔やんでももう遅い、だから事前によく考えろ、というような意味だと思っているが、人間こういう時には後悔せずにはいられない。現に故人と交流のあった多くの人のそういうコメントを目にした。
私は勿論直接故人と交流なんてないから、後悔はない。
でも『反省』はしている。
『後悔』は『悔やむ』という『感情の動き』であるが、『反省』は『省みる』という『行動』である。現状のままではマズイと思い、何かしら次のアクションを起こそうというきっかけになる。
こういう悲劇を起こさない為に、『自分に』出来ることは何だろう。故人と同じように傷つき、苦しんでいる人がきっと沢山いる。もしかしたら自分のすぐ近くにも。だがそこに気付くのは、今回の件と同様、どんなに親しい人でも至難の業だ。
自分のそういった内面を他人にオープンにするのは、とても勇気が要るからである。他人の内面は、家族であっても全てわかっている、とは必ずしも言い切れない。
こう言う事を起こさない世の中にするために、私には何ができるのか。色々考えたが、今私にできる事は
『自分を大切にする』
ということだと思っている。
自分を大切にすれば、他人も大切に出来る。酷い言葉を他人に投げかければ、投げかけた本人も傷つくのだ。自分を大切にする人は、他人にそんな酷いことは出来ない。
酷い言葉を投げかける人が喜んでいる、それが許せない、といった風な意見が多い。確かに一見そうだろう。が、そんな言葉を投げかける人は、とても寂しい人なのだ。自分を大切に出来ない、苦しい人なのだ。そしてそれは本人の意思ではなく、そのような人間になるよう、その人がそういう環境で育まれたからなのだ。そういう人が生まれる要因を少しでも減らしていかねばならない、という気がしている。
一人の力はとんでもなく小さい。でも私に出来るのは、こんなとんでもなく小さなことしかないと思う。
世の中を悪くするのも、良くするのも『自分』次第なのだ。『自分』は『世の中』と隔絶された存在ではなく、確実に『世の中』の一人の構成員であり、現代を生きる『当事者』なのだ、という自覚をあらためて持ちたいと思う。
ちっぽけな私が私を大切にすれば、その気持ちが波紋のように『世の中』に拡がって行くことを信じている。
先ずは自分のことからから始めたい。