見出し画像

なんとでもなる

今日買い物に行ったら、青果コーナーに綺麗なゴボウが並んでいて、買う予定ではなかったのについつい籠に入れてしまった。日持ちのする野菜だからまあ良いか、と思いつつ会計を済ませる。
さあ今日はこれを使って何を作ろうかな、とちょっとワクワクした気分で家路についた。

ゴボウは私の大好物である。
サラダにもなるし、きんぴらも作れる。ささがきして柳川風に卵でとじるのも好きだし、人参やサツマイモなどの野菜と一緒にかき上げにするのも美味しい。夏は薄くスライスしたものを素揚げして、かつおだしの効いた汁に浸けて揚げびたしにすると、いくらでも食べられる。
魚の煮つけなどと一緒に煮ても美味しい。
和洋問わず、豊富なメニューに使える万能野菜だと思う。

歯ごたえも香りも好きだ。
私は何でも割と硬めの、コリコリしたものを好んで食べる傾向にある。ゴボウの食感はコリコリでなくシャキシャキだけれど、あの歯触りは他の野菜では味わえない。
一番好きなのが香りである。
あの、湿った土の匂い。たわしでこすって洗うと、強く立ち昇ってくる。
皮が一緒に剝けるからだろうか。あの独特の灰汁の強い香りを嗅ぐと、土を身近に感じてなんとなく安心する。
洗いゴボウも売られてはいるが、買う気になれない。買ったこともない。
ウチの母は洗いゴボウを買って帰ったことがない。ゴボウを使う時は、いつも台所のシンクでゴシゴシたわしで擦っていた記憶がある。
こうして実家で目にしていたのが、たまたまいつも土の付いたゴボウだったから、綺麗に洗われたゴボウは私にとってゴボウだとは感じられないように思う。

買い物の時、ゴボウはちょっと面倒なものである。
長いから籠からはみ出す。昨日など、通路ですれ違ったおじさんに当たってしまい、スイマセンと頭を下げることになってしまった。こんなことはしょっちゅうある。
短くカットしたものも売られてはいるが、これも私は買ったことがない。冷蔵庫に入れるにはこっちの方が便利なんだろうけど、なんとなく嫌なのである。実家でも終ぞお目にかかったことはない。
お陰で、買い物後はマイバッグに入れるのにちょっと苦労する。ずっと以前、母から『ネギやゴボウがそのまま入るエコバッグ』というのをプレゼントされたことがあるが、酷使し過ぎてもうとっくに捨ててしまった。
今使用しているエコバッグは大き目だが、ゴボウがすっぽり入るほどではない。いつも隅の方から『どうもスミマセン』とばかりに、少し顔をのぞかせることになる。
大根やスイカのように重量級ではないのが救いだけれど、こんな調子でどうにも扱いづらい。それでも冷蔵庫の野菜室にコイツがなくなると、やっぱり数多の面倒があっても買ってしまう。

結婚が決まってから、母からいくつかの簡単な料理を教えてもらったが、その中にキンピラゴボウがあった。
母とシンクに並んで立ち、ゴボウを洗い、ささがきし、水に放す。くるくるゴボウを回転させながら、鉛筆をナイフで削るような感じで削いでいく。
私の手元をチラチラ見ながら、母は時折
「包丁の刃をあてる角度が大きいとやりづらいよ」
とか
「薄い方が味がからんで美味しいからね」
とかイチイチアドバイスをくれる。

私は極めて不器用な上に、包丁を殆ど握ったことがなかったから、水に放たれるささがきは太かったり細かったり、薄かったり分厚かったり、色々だった。
正直、こんなんで主婦としてやっていけるのかな、キンピラゴボウひとつ満足に美味しく作れないで結婚するなんて、と不安と自己嫌悪でモヤモヤしながら、心の中で勝手にまだ一緒に暮らしていない夫に申し訳なくなったりしていた。
「結構難しい」
私がため息をついてぼやくと母が、
「大丈夫。誰でも出来るようになるから。ほら」
と笑って、凄いスピードでささがきを作り出した。
「お母さん器用やん。私無理」
ちょっとふてくされてそう言うと、
「三十年やってたら出来るようになって当たり前。あんたはこれからでしょう。なんとでもなる」
と母は私の方は見ず、ささがきを作る手を止めないまま笑って言った。
「そうかなあ」
「そうよ」
そこからはなんとなく二人とも黙ったまま、せっせと手を動かし続けた。
ボウルの水に次々と放たれるささがきは、太かったり、薄かったりしたけれど、まるで何か生き物のように見えた。

あれから二十五年、ゴボウを使ったメニューはよく我が家の食卓にのぼる。
ささがきは面倒なので、私は細く拍子木切りすることにしているが、ゴボウを口にする時、あの時水に放たれたささがきゴボウをふと思い出すことがある。
そして母の言った通り、『なんとでもなる』のだったなあ、と小さな含み笑いを浮かべるのである。