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花の命

休みの度、運動がてら近所の神社に詣でている。ここへの道中に一軒の小さな呉服店がある。
こぢんまりとした清潔なショーウインドウには、いつも季節を感じる柄の帯と反物が組み合わせてディスプレイされている。日光で色焼けするのを嫌っているのか毎日違うものが掛けられているので、今日はどんなのが掛かっているのだろう、と前を通るのを密かに楽しみにしていた。
反物の前には流派は分からないが、いつも素晴らしくセンスの良い生け花が飾ってあり、反物の柄と相まって一層季節感を演出していた。
目の保養、とばかりにわざわざ少し遠回りして愛でたりしていた。

ある日いつものように呉服屋の前を通りかかったら、定休日だったようで店のシャッターが降りていた。今日は見られないのか、残念だなあとちょっとがっかりして目線を下に落とすと、『事業用ごみ袋』と書かれた袋が店の前に出してあるのが目に入った。
見るともなしに中に入っているものが見えて、ちょっとショックを受けた。
つい先日まで綺麗に生けられていた花が、他のゴミと一緒に無造作に突っ込まれていたからだ。

昔、ほんの少しの間生け花を習っていたことがある。
その時先生は花の始末の仕方について、こんな風に仰った。
「『今まで楽しませてくれてありがとう』という気持ちを持って丁寧に処分すること。長いものは半分以下にちゃんと花鋏で切ってから、紙に包んでゴミ箱に入れること。木は危ないからもっと細かく、収集の人に迷惑がかからないように。捨て方にも作法を忘れないように」
この言葉がとても印象的で心に深く残ったので、以来私は花の始末をする時はこのやり方を守っている。
呉服屋のゴミの中の花は、花瓶から抜き取ったまま捨てられているように見えた。よそのゴミだから良いんだけれど、小さな違和感を覚えた。

花でもしおれていたり枯れていれば捨てざるを得ないが、その度に私は小さく「ごめんね」と謝ってしまう。
枯れた花でも、リンゴの皮でも、鼻水を拭いたティッシュでもゴミには違いない。でもリンゴの皮に謝ったりしない。
花というものは、それがなくても生きていくのに不自由はしない。だが、こちらの心を明るく和やかなものにしてくれる。でも花はやがてしおれ、枯れる。
本来なら地面に根を張り、土から養分と水を吸収して花を咲かせ、子孫を残す活動をして生涯を終えるものを、その途中で手折って人間が愛でるために連れてくる。私が捨てる花に対して謝ってしまうのは、多分そういった人間の身勝手さを、心のどこかで花に対して申し訳なく感じているからだろう、と思う。

捨てられていた花は、まだウチだったら十分現役で生けていそうな状態だった。ショーウインドウにはしおれかけたり枯れかけたりした花は飾れないだろうから、早い段階で捨てることになったのだろう。
事情は分かるけど、何とも言えない複雑な心境になった。
それ以来、なんとなく呉服屋の前を通らなくなった。別に批判めいた気持ちを持っているわけではないが、店の看板を目にするとあの時捨てられていた花を思い出してしょんぼりしてしまうからである。
時間が経てば平気になるのかもしれないが、今はそういう気分なのだ。

この呉服屋の筋向いに、小さな古い居酒屋がある。呉服屋の前を避けるとこの店の前を通過せねば神社に辿り着けないので、必然的に通ることになる。
店の周囲はあまり手入れされておらず、横の駐車場わきには雑草が生い茂っている。店に入ってみたことはないが、営業はしているようだ。申し訳ないが、お世辞にも綺麗な店とは言えない。
この店の横の雑草に紛れて、最近までずっと季節外れの朝顔が咲いていた。もう随分花も小さく勢いがなかったが、長い間のんびりと空に濃い紫の花弁を広げているのを見た時、何故か呉服屋で捨てられていた花を思い出した。

花のある暮らしは良い。こちらの家に来てからは置く場所に困らないので、あちこちに花を飾れて嬉しい。
でもその花を捨てる時、やっぱり私の脳裏にはあの捨てられていた花と、居酒屋の季節外れの朝顔が同時に思い浮かんでしまうのである。









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