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完璧課長の隙

若い頃の職場で、一番最後にお世話になった課長はSさんと言った。九州の出身だが関西で就職し、職場結婚した奥様とそのご両親と一緒に暮らしておられた。
切れ者だが物静かで穏やか。常に冷静で、みんながテンパり気味な時でも、
「いや、ちょっと待て。それはこういうやり方じゃあかんのか?」
と静かに的確な意見を述べる、頼れる上司であった。
相手がお客様でも会社の人間でも、どんな人かを見抜く目はとても鋭く、私はその観察眼に何度も密かに舌を巻いたものだった。
いつもスーツをピシッと着こなし、オシャレなネクタイをしていた。奥様の手を煩わせることなく、自分で選ぶのだと言っていた。
髪はセンター分け。かなり強度の近眼で、太い黒縁の眼鏡をいつもかけていたが、とても良く似合っていた。
外見も完璧で隙を感じさせないのに、どこか柔和で温かい雰囲気のある人で、私達部下もとても慕っていた。

ある時、私の担当する地域で市の用地買収があり、近々大きな入金があるお宅がある、という情報が本店から入った。ウチの銀行と取引はなく、私も実際にお目にかかったことはない先だった。
こういう時『どうぞわが行にご入金をお願いします』という勧誘に行くのは、当時の当たり前の営業方法だった。ただ買収は公的なものなので、『どこからその情報を得たのか』とお客様に不審がられないよう、慎重に営業をかける必要があった。
いきなり役職者が赴いたりはしない。先ずは一番下っ端の私が行く。九割九分、玄関先でインターホンのみの応対になる。せいぜい『ご挨拶』が出来れば良い方だ。酷い時はご本人とかご家族ではなく、お手伝いさんなどの応対の時もある。
次に主任クラスと一緒に行く。この時くらいにやっとドアを開けてもらえ、『面通し』が出来る。少しそれらしい話は出来るが、核心には触れられない。お互いに歯に物が挟まったような、当たり障りのない会話を数分して、おしまいである。

この後、やっと課長が一緒に行くことになる。
S課長は普段は物静かなのに、こういう時の話術は非常に巧みで、大抵のお客様は笑顔で玄関の中に招き入れてくれるのだった。魔法を見ているようだった。
「課長、凄いですねえ」
感心して言うと、
「あの人はな、○○ということを望んでる。だから××っていう話をしたんや。相手が何を望んでるか考えずにこっちの要求だけ押し付けても、お客さんは動かん。相手の望んでいることを理解して、そこにピンポイントで答えるようなアプローチをすれば、今回はダメでもいつか『あ、あの人に相談してみようか』となることもある。人事を尽くして、果報を寝て待つんや」
と笑いながら教えてくれた。

この時も課長と一緒に訪問したら、お客様は話をするうちに
「どうぞ、お上がりください」
と私達を客間に招き入れてくれた。
長い廊下を歩いて、大きな屏風の置いてある和室に通された。ふかふかの座布団を勧められて、恐る恐る座った時だった。
私の目にふと、何か肌色の物体が飛び込んできた。え?なんだろう?
一瞬分からなかったが、目が慣れると吹き出しそうになった。
課長の靴下の踵に、大きな穴が開いていたのである。

お客様も課長もそんなことに気付く風もなく、真面目に昨今の経済情勢の話などをしている。私は課長の靴下の穴がお客様にバレないか、ヒヤヒヤしながら適当に相槌を打っていた。
「いきなり上がり込みまして、大変失礼致しました。お茶、ご馳走様でした。ではまたどうぞ、よろしくお願い申し上げます」
話が終わり、課長が畳に頭を擦り付けた。私も並んで同じようにしながら、ついに課長の靴下の穴がお客様に見えるのではないか、とドキドキしていた。
が、お客様は気付かなかったようで、
「いえいえ、ご丁寧に」
とにこやかに見送って下さった。
何故かホッとした。

そのお客様のご入金を頂いたかどうか、私には全く記憶がない。仕事不熱心にも程があるというものだ。
この件に関してはただ、課長の靴下にあいた大きな穴が、物凄く鮮明に記憶に残っているだけである。
いつもは隙のない人だったから、だろうか。思い出す度にちょっとニヤニヤしてしまう、下らない思い出である。