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無口な熊

前の職場で同じ部門にいたM君は、私にとって『ちょっと気にかかる子』だった。
外見は熊のよう。横にも縦にも大きい。色は黒く、少し受け口で太い眉。いつも俯きがちで、その黒目がちで小さな目は滅多に人を正面から見ることはなかった。
喋ることは殆どなく、何か話しかけても「あ」とか「はあ」とかいう短い、返事にもならないような声を小さくボソッと呟くだけの、不愛想過ぎるくらい不愛想な子だった。
だから初めて見た時は『デッカイ子だなあ』と思った程度だった。

私が初めてこの職場に来た時、彼は学生バイトだった。昼間働いて、夜間学校に通っていた。
ある時、彼と同じ棚の商品出しをすることになった。黙々と商品出しをするのも何となく気づまりで、手を動かしながら少し話しかけてみた。
「ここで働いた後、夜は勉強するんやろ。凄いなあ」
本心からそう言うと、彼は私を見て珍しく少しニコリとした。そして、
「眠い時もありますよ」
と聞き取れないくらいの声で言った。
「そらそうやろ。家事はお母さんがやってくれるけどなあ」
なんとも思わず言うと、意外な返事が返ってきた。
「オレ、母ちゃんおらへんのです。父親は知りません。ずっとばあちゃんと二人暮らしなんです」
そういうと照れ臭そうに頭を掻いた。
私は慌てた。

「ごめんね、悪いこと言うたわ」
「いえ、全然。良いっすよ」
彼は笑ってそう言って、ボソボソと続けた。
「オレ、中学の時いっこもガッコ行ってへんだんです。卒業はさせてくれるけど、高校行ってまで勉強もしたないし、友達とかめんどくさいし、もうええわ中卒で、と思ってたら、中三の時の担任が毎日家まで来て、しつこく『高校は行っとけ』って言うんで、行くことにしたんですよ」
そしてまた、照れ臭そうに頭を掻いた。
私は危うく泣きそうになってしまった。

「じゃあ、おばあちゃんが食事とか作ってくれるん?」
と訊くと、
「いや、買い物と料理はオレの分担なんです。洗濯と掃除がばあちゃんで」
とこともなげに言う彼に、私はすっかり感心してしまった。
「アンタ偉いなあ!ホンマに偉いわあ!」
思わず何度も言うと、彼は物凄く恥ずかしそうにニヤニヤして、
「元々、中学で家にこもってた時に毎日料理はしてて。結構好きなんです。ばあちゃんは辛いもん苦手なんで、カレーとかちょっとスパイスの組み合わせ変えて作るんです。そしたらオレと同じもん食べられるし、経済的やし」
と凄いことをサラッと言った。
「え!スパイスからカレー作んの!?凄すぎ!!」
とビックリすると、
「いやいや、好きっすから」
と片手を振ってしきりに照れた。

それまでは、パート仲間の間で話題に上ることすらなかったM君だが、私の彼を見る目はすっかり変わってしまった。
それからというもの、M君はちょくちょく私と喋ってくれるようになった。他のパート仲間も、
「M君って喋んの?」
と初めはおっかなびっくり様子を見ていたが、次第に話しかけるようになり、いつの間にかM君は私達オバサン連中と親しく話すようになった。
仕事を終えて学校へ行こうと歩いていく彼を見かけると、みんなで
「M君!お疲れ様!いってらっしゃい!」
と手を振ることもあった。そんな時、彼は物凄く恥ずかしそうに肩をすくめて、こちらを盗み見るようにしながらニヤニヤして、ひょこっとお辞儀をした。

M君は高校卒業後、正社員として採用された。私達は彼を祝福した。
しかし、どこの世にも反りの合わない人というのは居る。
彼が入社した頃転勤でやってきたYさんは、無口で反応の薄いM君を嫌い、目の敵にした。そして彼がちょっとしたミスをする度に、酷く責めた。
M君は元々、注意されるとムッツリと黙り込み、謝罪をしないところがあった。そういう反応はますますYさんの気持ちを逆撫でした。
事ある毎に二人は対立し、周囲はギクシャクした。

M君はYさんによる連日の厳しい締め付けに嫌気が差したのか、仕事を休みがちになった。退職の噂もまことしやかに囁かれ、私は一人、気を揉んでいた。
しかし、捨てる神あれば拾う神ありである。当時の上司だったZさんが
「お前、短時間でもええから出て来いよ」
と粘り強く声をかけつづけ、シフトを調節してYさんと顔を合わせる時間を減らすようにし、店長に掛け合ってM君をYさんとは別の部署に異動させた。
折角正社員になったのに惜しいことではあったが、M君は勤務形態を変更し、またアルバイトとして働き始めた。
間もなくYさんは転勤し、M君を責め立てる人は居なくなった。するとM君はちゃんと出勤するようになった。

私が退職する日、M君は公休だった。最後にどうしても挨拶はしたくて、翌日買い物を兼ねて彼に会いに行った。
酒売り場で黙々と働いていた彼の大きな背中を見つけて、声をかけた。
「M君、お世話になりました。元気でね」
驚いて振り向いた彼はまた照れたように笑って、頭を掻いた。
「引っ越すんですってね。お疲れ様でした」
小さな声でそれだけ言うと、すぐまた仕事に戻っていった。
愛想のないデッカイ背中に心の中で、
「頑張れ!」
と呼びかけて、私は職場を後にした。

息子と同い年のM君。来年は年男だ。
どうか彼がこれからも幸せな人生を歩んでいきますように。