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お兄ちゃんの涙

子供が小学生だった頃、地域の子供会の役員をしていた時の話である。
そのあたりでは毎夏休み、地域の子供会でバスツアーに出かけるのが小学生の恒例行事になっていた。親は基本的に同伴せず、大人で行くのは役員のみである。行先や予算の決定、班分け、バスの予約、子供達の昼食の手配などなど、役員にとっては運動会並みの大変なイベントであった。
ウチの区域は子供の数が百名以上と飛びぬけて多く、日帰りの出来る受け入れ施設がそうそうないので、行先探しはなかなか難航した。限られた予算で、丸一日子供がいかに退屈せずに、しかも安全に時間を過ごせるか。みんなで遅くまで話し合ってアイデアを出して決めたのも、今となっては懐かしい思い出である。

この時参加した中に、F君という子がいた。息子と同い年でクラスも一緒になったことがあり、仲が良かった。彼は三人兄妹の真ん中っ子で、真面目で素直な中学生のお兄ちゃんと、お転婆な妹に挟まれた、大人しい印象の子だった。
お母さんは私が引っ越してきた時に何かと教えてくれた親切な方で、いつも仲良くさせてもらっていた。お父さんは自営業で、地元の伝統工芸品を作っておられた。
私から見れば、明るくなんの問題もない、普通の家族だった。

F君はウチの息子と同じバスに乗ることになっていた。妹も一緒である。
迎えに行くと彼は浮かない顔をして待っていた。どうしたのだろう、と思っていると、お母さんが
「昨日の晩、ゲームのし過ぎで寝不足やねん。バスで寝るかも。ごめんやで」
といって彼の背中をぐいと私の方に押した。妹がチラッと上目遣いでF君を見たのがちょっと引っかかったが、はいはい、お預かりしますね、と言って渋る様子の彼を妹と息子と一緒にバスに乗せた。
彼は席についてからも誰とも喋ろうとせず、ただうつろな目で窓から外を眺めているばかりだった。バスは定刻に動き出したが、彼の様子は変わらなかった。
寝不足で無理して来たなら酔うかもしれないな、と思ったので、私は道中ずっとF君を気を付けて見ていた。

目的地に着くと、皆嬉しそうに飛び降りた。一人ずつ確認しながら名簿と顔を突き合わせる。と、
「F君降りてないんちゃう?」
ともう一人の役員が言った。妹は降りてきている。
「お兄ちゃんは?」
と訊くと、彼女はバツが悪そうに黙って俯いてしまった。
運転手さんもここで休憩のために降りることになっている。彼が降りなければいつまでも休憩に入れない。私はもう一人の役員に他の子を任せて、F君の席に向かった。
彼は静かに泣いていた。
「どうしたん?しんどい?どこかで横にならせてもらうか?」
そう声をかけるが、一向に聞く様子がない。
「とにかく、いっぺん降りようか。運転手さんにも休憩してもらわんとあかんしな」
そう言って肩に手をやると、彼は強く振り払った。いつの間にか後ろに妹が来ていて、兄をじっと見ている。その目はとても怯えていた。
「お兄ちゃん、朝から具合悪かったの?」
妹に訊くと彼女は頭をブンブン横に振って、
「お兄ちゃん、昨日から『行きたくない』ってずっと言うてはってん。そやけどお母さんが『何言うてんの!行きなさい!いきなり休むなんてダメ!』って怒らはってん」
と小さな声でボソボソ言って俯いた。

この時、あまりにも降りてこないF君を心配して、仲良しの子供達もバスにやってきた。子供会の会長も一緒である。
「はよ来いや」
「弁当一緒に食おう」
みんな入り口から口々に言う。F君は泣くのをやめて暫く黙っていたが、やがてノロノロと立ち上がり、本当に渋々といった感じでバスを降りた。
取り敢えずホッとして、運転手さんに詫びを入れていると、会長がやってきた。
「体調は大丈夫なんやね?」
「ええ、昨晩お母さんと色々あったみたいで。行きたくないって言ってたのに無理やり行け、って言われて出されて、拗ねてたんでしょうか」
そう言うと会長は頷いて、
「いくつになっても子供は子供やもんね。お母さんの『厄介払い出来て嬉しい』みたいな感じが寂しかったかな?」
と笑った。

その後のF君は、みんなとレクリエーションを楽しみ、お弁当も完食して、帰りのバスではグウグウ寝ていた。私はちょっと安心した。
バスが解散場所に着くと、F君のお母さんが迎えに来ているのが見えた。窓越しに手を振っていると、妹が私のそばに来て素早く耳打ちした。
「おばちゃん、お兄ちゃんのこと、お母さんに黙っといてな?」
彼女の私を見る目は必死で、いつもの屈託のなさは少しもなかった。
「うん、大丈夫よ。心配せんでも言わへんよ」
そう返事すると、彼女はちょっと顎を引いてはにかんだように笑った。
私も黙って笑顔を返した。
二人はお母さんに連れられて帰っていった。

お母さんも長い夏休みに一日くらい、のびのび子供のいない時間を過ごしたかったんだろうなあと思うと、責める気にはなれない。でもお母さんにかまって欲しかったF君の気持ちもわかる。しょげる兄を見て、心痛めていた妹の気持ちも切ない。
親と子の心を思う時、思い返す遠い昔の日の出来事である。