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ないないづくし

母方の祖父は大変長生きだった。最晩年には住み慣れた家を離れて、我が家の近くの老人ホームに入所していた。三人姉妹の年の離れた末っ子で、体力のある母が世話をみるしか選択肢がなかったからである。
祖父は大腿骨を骨折した後は寝たきりだったが痴呆は入っておらず、母や私達家族が行くと喜んで白い頬に朱がさし、ニッコリした。ただ口数は極端に少なくなっていて、ウトウト寝ていることが多かった。だから特に会話をすることもなかったが、短いほのぼのとした穏やかな時間を過ごすのは、多分祖父にとっても幸せだったんじゃないかと勝手に思っている。

祖父の居室は三人の相部屋だった。
他の二人は勿論どちらも男性で、九十代だった祖父よりは随分若かった。無口でせかせか歩き回る七十代くらいの男性と、まだ六十代後半だというNさんという男性だった。
Nさんは私達が行くと、祖父の普段の様子などを聞きもしないのに一生懸命教えてくれる。やや活舌が悪かったが大きな声で話しかけてくれ、祖父が眠っていたりすると祖父よりNさんと会うために行ったような感じになってしまうこともあった。
でもいつもあんまり一生懸命お話してくださるので、はいはい、といつも有難く聞くことにしていた。

祖父は一度、Nさんに窮地を救ってもらったことがある。
ここの介護用ベッドは、被介護者が自分でベッドサイドのコントローラーで傾き具合を調節できるタイプだったのだが、ある時祖父は操作を誤って身体がVの字になり、にっちもさっちもいかなくなってしまった。
この時、Nさんは非常呼び出しボタンを押しながら、大声で喚いて介護職員を呼んでくれて、祖父はすぐに助けられた。
私たち家族が後からお礼を言ったら、当然のことをしたまで、と笑っておられた。

この時から私達はNさんと親しく言葉を交わすようになった。
老人ホームに入所するには随分若い年齢である。詳しいことは教えて貰えなかったが一度、
「自分の寿命は長くないことがわかっている」
と呟くように言ってくれたことがあった。ご病気だったようだった。
「自分は幼い頃に両親を相次いで亡くした。若いうちにこういう身体の状態になってしまったので、妻もいない。子もいない。ないないづくしの人生なんや」
とも話してくれた。
天涯孤独、と言うことだろう。見舞いに来る人は私達の知る限り、誰もなかった。そのせいか、施設の職員は皆殊更Nさんに優しかった。

こういうことを自分から言う人は大体、話を聞く側に甘えるというか、もたれかかるような印象を与えることが多く、うんざりしそうになることがある。だがNさんの口調はいつも淡々としていて軽く挨拶をするような感じで、こちらのリアクションや同情を期待していないのがわかり、気が楽だった。だから妙な感情移入をすることもなく、「事実」として気の毒なことだな、と冷静に受け止めることが出来た。

Nさんは私や妹のことを「孫」のように思っていたようだった。
面会終了時間は七時だったので、早帰りの日など仕事帰りにちょっと施設に立ち寄ると、
「今日は仕事早く終わったんか?」
とか、
「今月は忙しいんか?」
とか聞いてくれる。帰り際にはいつも、
「気ィ付けて帰りや。話してくれてありがとう。また来てや」
といって手を振って見送ってくれた。

「昨日は大学生のボランティアが落語をやってくれて」
「今日の夕飯には美味しいデザートがついてて」
「今月は誰それの誕生日で、誕生会で職員がこんな芸を披露して」
などと、行く度に色々教えてくれた。祖父が殆ど何もしゃべれない状態だったから、Nさんのお陰で私達は施設の行事やお楽しみのメニューを知ることが出来た。

Nさんは祖父が亡くなる少し前に、突然施設から居なくなった。急にベッドが空いたので、直前まで普通に喋っていた私達はなかなか事実を受け入れることが出来なかった。まさかね、と思っていた。
違う施設に移られたんですか、と聞くと施設の職員は目を伏せた。

若い頃からずっと病気で寝たきり。誰も見舞いに来ない。同室の人間は徘徊してばかりの人と、寝てばかりの人。話も出来ない。
私達家族と話すのは、Nさんのささやかな楽しみだったのかも知れない。
私達の方も、最初は戸惑ったけど次第にお話させてもらうのが当たり前のようになっていた。Nさんを介して殆ど話の出来ない祖父と話していたような気がしていた。

どんな人生だったんだろう。もっとお話しできたら良かったのにな。
祖父の死から四半世紀以上経った今でも、ふとあの淡々とした語り口を思い出すことがある。