何よりの才能
物心ついた頃から、『くそ真面目』と言われることが多かった。友人は勿論、家族や親族もそう言って私を笑うことが多々あったから、私はいつのまにかすっかり僻んでしまっていた。
本来良い気質を表す『真面目』という言葉の頭に、『くそ』なんて有難くない形容詞をつけることを誰が考え付いたのだろう。おかげで『真面目ですねえ』と相手が本心で褒めていたとしても、勝手に自分で頭に『くそ』をつけては、折角の誉め言葉を自分を貶める言葉のように曲解して、私はそう言われる度に落ち込んでいた。
私が『真面目』であろうとしたのは、そうすることでチンケな自尊心を保とうとしたからに他ならないのであるが、皮肉にもそれがかえって私の自尊心を傷つけることになってしまっていた。本当はそんなに『真面目』一辺倒ではない人間なのに、それをわざわざ演じては本当の自分とのギャップに苦しんでいた。滑稽なことにこういう時、『真面目』であることは私の中で、崇高な理想の姿となっていた。
つまり、その時々で『真面目』という言葉に勝手な意味付けをして、自分を卑下するように卑下するように、解釈していただけであった。
クラリネットの師匠のK先生に師事するようになって、一年半くらい経った頃だったと思う。日々先生の指導に従って必死に練習していたおかげで、どんくさい私でも、ようやくなんとかなりそうになって来つつあった。
どの先生もそうだと思うが、生徒の実力がついてきたと見ると、出す課題の量が一気に増える。当時は専業主婦ではあったが、子供もまだ小学生だったし、学校の役員などもしていたので、そんなに多くの時間を練習に割けるわけではなかった。
ある時のレッスンの終わり掛け、
「次までに○○と、××、それと△△も出来る所まで・・・」
と先生がこともなげに大量の課題を告げたので、私はそれを遮ってこう言った。
「先生、ちょっと待って下さい。そんなに沢山無理です!練習する時間が取れないと思います。もう少し減らして下さい」
すると先生は大丈夫、大丈夫と笑って
「全部できなくても良いんです。やろうとして下さい。あなたは素直で真面目だから、ちゃんと練習しようとするでしょう?その姿勢が大切なんです。やり切ることは必要ではありません。トライすることが大事なんですよ。そこで試行錯誤して、ああかな、こうかな、と考えながら工夫して練習することこそが必要なんです。それには僕の言ったことを素直に受け止めて、真面目にやろうとする気持ちがないとダメなんです。あなたは大丈夫です」
と仰った。
この時私の心には、先生の言葉が率直に嬉しく響いた。技術を褒められたわけではないのにどうしてなのだろう、と不思議に思っていると、先生は楽器を片付けながら、私を見ずに呟くようにこう続けた。
「器用とか不器用とか、関係ありません。『素直で真面目』なことは何よりの才能なんです。これがないと、どんなに器用な人間でもダメなんです。大成もしません。人間の性根、土台がダメってことですから」
淡々と、でもしみじみ仰ったので、嬉しいというより成程と納得した。
多くのプレイヤーや生徒さんと接してきた先生の、偽らざる本音のように聞こえたからだった。
そしていつも冗談ばかり飛ばしている先生も、『真面目』な人なんだな、と感じた瞬間でもあった。
この時以来、私は『真面目』と言われることに抵抗がなくなったように思う。職場でも、親にも、楽団でも「真面目やねえ」と言われることは今でもしょっちゅうあるが、今は素直に『賛辞』として心に入ってくる。本当はそんなに『真面目』でもないんだけど、まあそれは横に置いておこう。
他人から言われた言葉をどう捉えるか、なんて自分の考え方次第なのだと思う。そう思えるきっかけを与えてくれたK先生に、あらためて感謝している。そして先生の偉大さを感じると共に、今でも有難みをひしひしと感じている。