我が家の専属パティシエ
北陸にいた頃、夫の上司にOさんという人がいた。夫より十年ほど年上で、奥様と二十代のお嬢さんとの三人暮らしだった。
ある日社員食堂でたまたま隣の席になり、明日から実家に帰るのだと話したら、
「確か君、京都市内やったな?」
と言うのでそうです、と夫が答えるとOさんは急に身を乗り出してきて、
「ちょっと買うてきて欲しいもんがある。○○っていう店の××っていうケーキなんやけど、頼まれてくれへんか。金は出すから」
と手を合わせて拝むようにする。
強面のOさんの思いがけない申し出に夫は驚いたが、
「お金なんて良いですよ。お土産に買ってきますわ」
と笑って差し出されたお金を押し返した。
「お嬢さんか奥さんに『食べたい』ってせがまれてはったんかなあ」
と笑いながら、そのケーキを買ってお土産に持って行った。Oさんは大変喜んで何度もお礼を言ったそうで、あまりの喜びように
「もしかして娘さん具合悪くて『最後に食べたい』とかと違うやろなあ」
とちょっと心配したりしていた。
翌日、Oさんが夫に
「昨日はありがとう。いやあやっぱり○○のケーキは凄いわ!」
と興奮気味に話しかけてきた。娘さんじゃなかったのかな、と不思議に思って夫が聞いていると、Oさんはスポンジがどうとか、メレンゲがどうとか、他にも専門用語をバンバン使って件のケーキの凄さを語りだした。そして、
「やっぱり食べてみなわからんな!おかげで色々ようわかったわ!」
と満足そうに夫に笑いかけた。
呆気に取られて聞いていた夫は漸く自分を取り戻し、
「Oさん、ケーキ作らはるんですか?」
と聞くと、Oさんは照れ臭そうに小さな声で
「ワシ、これだけが趣味でな」
と頭を掻いて苦笑いしたという。
Oさんは料理はしないが、「まるで実験のよう」なケーキ作りにいつの頃からかはまってしまい、味を研究しようととあるケーキ屋に日参するうち、そこのパティシエと仲良くなってしまった。
その人から様々な知識を伝授してもらい、道具も揃え、益々のめりこんでいったそうだ。だが奥様は辛党、お嬢さんは「太る」と言ってケーキを遠ざける為、作っても誰も食べてくれる人がいなかったのだという。職場の女の子たちなら食べてくれるだろうけど、会社で大っぴらに言うのもなんとなく恥ずかしいし、とこっそり作っては一人でもそもそ食べる日々だったらしい。
そのパティシエからは
「素人は採算を度外視して贅沢な材料を使える。下手したらプロより美味しいものが出来るよ」
と言われて、いつか誰かに自分のケーキを食べてもらって感想を聞いてみたい、と密かに思っていたそうだ。
味の研究も近所の店だけでは飽き足らなくなり、休日になる度に他府県に足を延ばして、話題のケーキ屋を訪れては買って帰った。一人自宅で味わいつつ、この味はどうやったら出せるんだろう、と研究に余念がなかったらしい。
夫が頼まれたケーキはOさんが是非一度食べてみたい、とずっと前から切望していたものだった。夫が「またいつでも声かけて下さい」と言うとOさんは大喜びしていたそうである。
翌週になって、Oさんが夫に
「この前のお礼に持って帰ってくれへんか」
とケーキの箱を差し出した。
「え!わざわざ作ってくれはったんですか?」
と夫が恐縮するとOさんは、
「いや、君とこ奥さんもお子さんも甘いもん好きや、って言うてたから食べて欲しなったんや。感想聞かせて欲しい。厳しめでええで」
と言ってまた照れ笑いした。夫は喜んで頂きます、と言って持って帰ってきた。
箱を開けると、洋梨のタルトが入っていた。上面にスライスされたコンポートが綺麗に円状に並べられている。十分売り物で通用しそうだ。子供と一緒に歓声をあげた。
勿論素晴らしく美味しかった。厳しい感想なんて述べようがない。家族三人で二日間楽しませてもらった。食べながらOさんええ趣味やねえ、と笑った。
それからはケーキを作る度、「どうや」と持ってきてくれるようになった。自宅に直接持ってきてくれたことも一度や二度ではなかった。その度にウチは美味しいケーキを食べられて幸せだった。バリエーション豊富で、私達は毎回出来栄えに唸っていた。
Oさんは夫が関西に転勤になった後、一度ウチの近所の話題のチーズケーキを食べにわざわざやってきた。手土産のケーキを持参してくれたのは言うまでもない。
出迎えた夫に、
「喜んでケーキ食べてくれる人がいなくなって、つまらんわ」
とぼやいていたそうだ。
もう退職されて随分になる。今頃は孫にケーキを作ってあげる、素敵なおじいちゃんになっておられるだろうか。
それにしてもあの洋梨のタルト、もう一度食べてみたい。