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後日日誌 2022年11月17日(木)

父と一晩二人きり。
生まれて初めてかも。
少し寝れたがほとんど起きていた。
目の充血がやばい。
布団なのか線香の煙なのか鼻が詰まるし目が痛い。
頻繁に起きて、
父の顔にかけてある白い布を取って眺めた。
そして2004年に一緒に行った
アイルランド旅行の写真を見た。
父も母も若く健康そうな姿。
ただ、こんな顔だったっけ?と、あの頃はほとんと会っていなかったし、
そんなに喋ってもいなかったので違和感が。
写真で笑っている顔は一枚もなかった。
闘病のこの半年の方が父の笑顔も見たし、
よく話した。
父のことを初めて知ることが多かった。
優しかった一面を見せてもらった。

本日はお通夜。
9時半から葬儀屋と打ち合わせをすることになっている。
母と姉が来て、
母には父と少し二人だけにしてあげた。
父の大学時代の友人が来てくれて
葬儀屋さんとの打ち合わせに同席してくれると言う。
父が入院していたときにすでに葬儀の見積もりを出してもらっていたので、後は細かい遺影のフレームの色とか、棺桶のデザインとか、骨壺・花など、色々選ばなければならなかった。
遺影の写真は“がん”と分かった6月に
すでに母と二人で写真屋さんで撮っていた。
葬儀屋さんでその写真を伸ばしてもらうと、
何か違う人のように感じ、
皆で何か違うね、違う人に見えるね、と話していた。
父は見た目を気にする人で、遺影も
「写真屋さんで伸ばしてもらえ」と言っていたので、
急いで写真屋さんに連絡をした。
私は一旦帰って写真屋さんに写真フレームを抱えて飛び込んだ。
本日中に仕上げて欲しいんです、と無理を言うと、
15時に仕上がるように頑張ります。と言ってくれた。

昨日から寝れていなかったのでひと休憩することに。
一瞬で気絶するように寝ていた。
2時間して、起きなきゃなと目を覚ますと、家の電話がなっている。
電話に出るとお坊さんからで、父の戒名についての話であった。
父がどういう人だったか知りたいとのことで、
私は寝ぼけ眼で、風呂が好きで家族思いだったと答えた。
そうしたら「優」はどうでしょうというので、良いですねと。
自分で付けれるのなら、もうちょっと調べてひねれば良かった。

遺影を写真屋さんにピックアップ。
葬儀屋さんで伸ばしたものと全然違う。
とても自然で解像度も高く綺麗だった。
ホッとして涙が出た。
父の言った通りにすれば大丈夫なんだなと。
急いで抱えて葬儀場へ向かう。

戻ると父は湯灌が終わり棺へ納棺されていた。
最後までお風呂に入りたがっていた。
本当は「湯灌は要らない」と言っていたのだが、
入れてあげて良かった。
髪もサラサラになり肌も綺麗に。
着替えも父がゴルフでまだ数回しか着ていないシャツに着替えさせてもらっていた。
入れ歯は火葬できないので、綿をつめているそうだ。
死化粧もされていて本当に今にも目を覚ましそうな感じだ。

姉と母が見たことないアルバムが出てきたと言って、父の幼少期・高校・大学の写真をピックアップして祭壇前に飾ることに。
父は見たことない笑顔で笑って写っていた。
それにはただただ驚いた。

お通夜には私たち親族・パートナーとお世話になった方々や大学の友人・サークルの友達、会社の元同僚、たくさんの人々が来ていただけた。
母はずっと立ってお礼を皆にしていたので、相当疲れていると思う。
姉は姉で明日の葬儀の人数や火葬場に行く人数、父のプロフィール制作など、来客の相手をしながら必死でこなしていた。

私も相当疲れていて、姉に母を早く帰らせろと何度も言っていた。
明日も早いんだし。ただ、母でないと決められないこともあるのでもう少し、と擦ったもんだし、姉の手伝いをしながらあっという間に20時を過ぎていた。
式場のスタッフも帰り、来客もいなくなったので、先に母を連れて帰らせてもらうことに。

とにかく疲れたね、お風呂にすぐ入って寝てくれと母に言って、
風呂への催促をした。
今夜は姉(次女)とわたしのパートナーが泊まるので
布団を敷いたりして整えた。
姉(次女)は式場のお通夜の受付をしてもらっていたので、
残ってもらって、あとで家に来ることに。

母は今日は燃えるゴミ出しだ!と言い出したので、ゴミ出しやっとくのでとりあえず寝てくれと言って寝てもらった。

私たちも風呂に入り終わったぐらいに姉(次女)が帰ってきた。
よかったと安心して横になったらまた気絶したように一瞬で寝てしまった。



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