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「ヴィーガン」という囚われからの卒業

ヴィーガンとして、約半年の月日を生きた。

そして今日、ヴィーガンを辞めるところに至った。


今日まで、ヴィーガンについての記事を多く綴った。

不快な思いにさせてしまった人もいるかもしれない。
申し訳ない。

それも、ひとつの必要な経験だったのだろう。

どうしてヴィーガンをやめようと思ったか。


それは、、

「ヴィーガン」一種の囚われだと気づいたから。

「ヴィーガン」こだわりになっていると気づいたから。

「ヴィーガン」生きずらい状況を生み出していると気づいたから。

「ヴィーガン」人を傷つけていると気づいたから。


全ての生き物に優しくありたい、そう思って始めたヴィーガン。

それがいつの間にかヴィーガンという制限、縛りの中で苦しんでいた。

全ての生き物ということは、この人間も含まれる。

一番身近で、最も優しくすべき存在。

約半年間、ヴィーガンをしてやっと気づけた。

この人間には、ヴィーガンという学びの半年が必要だった。


「内なる平和をつくらない限り、外の世界に平和をつくることはできない」

そう分かるための期間だった。

学びのための期間だった。

面白い経験ができた。そして多くを学んだ。

人間の生き方に、ヴィーガンやベジタリアンなどの括りをつけることは必要ないんじゃないか。

それは、自分で選んでわざわざ牢屋にはいるようなもの。

そういう世の中の概念に縛られる必要はないってだけ。

だから、ヴィーガンを否定しているわけじゃない。

ヴィーガンは素敵だよ!

でもこの人間がそうだったように、
その価値観を他人に押し付けたくなる気がする。

そこで争っちゃ意味無いのよ。

そんなわけで、一個の大きなこだわり、囚われを外すことができましたとさ。

またこだわりや執着に気付けたらシェアしたいと思う。

つい先日まで、ヴィーガンやらベジタリアンやらそういう世界の中にいた。

そこから身を引いて、フリーに生きていて気づきがもたらされた。

ヴィーガン、ベジタリアンなどは何を食べるかという論点だが、

本当に必要なのは、

「人間はなぜ食べるのか?」
「なんのために食べるのか?」

’’食の本質的な問題’’に向き合うこと。

ここが抜け落ちてることに気づいた。

小さな時からずっと食べ続けているから疑問に思うことはなかった。

「人間、どうして食べるのだろうか。」

そもそもどうして食事をするのか、ということについて真剣に考える必要がありそうだ。


・いろんな食材を楽しむため?
・美味しいものを食べるため?
・健康のため?
・生きるため?

きっと、肉体を維持するためというのが答えなのかな?

それをベースに考えると、

果たして本当に1日に3回食事を取る必要があるのだろうか。

野菜や肉など、バランスよく食べる必要があるのか。

たくさん食べることが健康につながるのか。


これは面白い。

食の本質と向き合うために、ヴィーガンという寄り道があったようだ。

これからは身体と向き合い、食事と向きあっていく。

また気づきがあれば書きたいと思う。

ではまた!



感謝。