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頑張って誰かに言いたい、伝えたい気持ちがクリエイティブさを支えてくれる

ときどき、「私みたいなタイプは、いわゆる一般的な幸せの枠にハマらない方がクリエイティブでいられるんだろうな」と思うことがある。

他人から見ると、きっと仕事”ばかり”してて、友達付き合いがさほど好きではなくて、いつも真面目に何かを考えて”ばかり”いて、人生の余白が少ない人に私は見えているんだと思う。あながち間違ってない。事実としてもそうだし、私個人的にも好き好んでそのような状態を作っているとさえ思う。

「1個人としての幸せにどれほど関心があるか?」と言う問いを私は常日頃自分に問いかけることが多い。ただ、今現時点の私には個人の幸せを追求する気持ちが薄く、いまいち自分がいわゆる一般の幸せな生活をしているイメージが持てていない。必要かどうかで言っても積極的にYesと言えない気持ちもある。

なんでそう思うのだろう、と問いを進めてみると、私個人的には「これ以上自分自身の生活において必要だと思える瞬間が少ないからではないか」と思うのだ。主にプライベートな側面で、「ああこれが足りないな」と思うことはほとんどなく、多くのものが「あったらいいよね」な存在に成り下がっている。

であれば、ミニマルに必要最低限の状態で生きていく方が過不足がなくて心地が良いよねと思うのである。幸せと言うのが何某かの豊かさで測れるのだとすれば、確かに私はそこまで豊かさを求めていないのかもしれない。

結果的に私は、仕事などの場面を除くとほとんど人と接することがない。と言うか、仕事という名目がない場面においては人と接することを意図的に避けている傾向さえもある。社交的でないとか、内向的な性格である、とかではなく、むしろ私は外交的で社交的なタイプであるけれども、プライベートな場面では極端な話、うちの猫だけいればそれでいいのだ。

でも、それでも面白いことがあったり、有益な思いつきをしたりすると誰かに少しでも早く喋りたくなってしまう。「このアイデアマジで面白い」と思ったら居ても立っても居られない性格であるために、どうにかして誰かにこの面白さを伝えたくなるのである。私はそのために、文章を書いたり、コードを書いたり、SNSに投稿をポストしたりしている。それ以上も以下もない。

多分、私自身が個人の豊かさを手に入れてしまった時、誰かにこの思いをどうにかして伝えたいと思うこのクリエイティブな気持ちが急激になくなっていくことを不安に感じている。普段は人と距離が離れていることで、自分でプロアクティブに伝えていたものが、人が身近になることで薄れてしまうことによって、きっと制作意欲や創作意欲、創意工夫の度合いが露骨に落ちて、自分の中でのキレがなくなっていくようなそんな懸念を持っている。

そんなことを考えると、私みたいなタイプは豊かさから距離をとることによって初めて、クリエイティブであり続けられるのだろうなと思っているのだ。クリエイティブでないといけないのか?という問いも一考の価値はあると思うが、少なくとも今の私にとってはクリエイティブさが失われたら、私自身が私自身の存在価値を認められない程にまで自分の中で重要な要素となっていると思う。

クリエイティビティは私にとって人生の彩であり、必ずしも豊かさとはつながらない概念である。クリエイティブなものが必ずしも万人に受け入れられるわけではないし、商業的・経済的な価値を生み出すとも限らないのと同じである。そういう場合もあるが、多くの場合本来の目的とは異なる副次的な産物であろう。クリエイティブであれる、ということそのものが自分の人生にとって自分を支えてくれる依代になっていると考える方が自然と思う。

その意味で、クリエイティブであろうとするとある種の豊かさと逆行するのは仕方ない。そこに割り切りがないときっと辛い。ある種、大多数の人とは別の方向に進んでしまい、恐れや不安、心配が常につきまとうであろう。それでもきっと、その方がある種の人々にとっては善い人生になることもあるのではないかと私は思う。

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