庄野誠一「智慧の環」

 文学が社会や人生において何の役に立つのか、という議論がある。この議論について私ならこう答える。庄野誠一の「智慧の環」を読めば、凡百のビジネス書の何百倍も有用な処世術を学ぶことができると。
 庄野誠一は、慶応出身で水上瀧太郎に師事した三田派の作家。『三田文学』や『時事新報』に小説を発表していたが、肺結核により作家活動を中断し、回復後は文藝春秋社、甲鳥書林、養徳社などで編集者をつとめた。1948年、前年に死亡した横光利一をモデルにした中編小説「智慧の環」を『文体』上で発表し、その強烈な内容から遺族の怒りを買うが、平野謙は「昭和文壇史の中ではあの作品は特筆すべきものだと思いますね」と評価。(『座談会 昭和文壇史』)。横光の伝記を書いた井上謙からは、「横光の姿を生々しく伝えている点興味深いものであるけれど、その内容にはいささか偏見の臭みが感じられる」と書かれている(『評伝横光利一』)。1950年から作家活動に再び専念し、1952年には「この世のあるかぎり」で芥川賞候補。しかし、その後注目されることはなく、自身の創作で単行本となったのは、1938年に砂子屋書房から刊行された『肥った紳士』のみのようだ。
「智慧の環」の内容については、小田光雄が「庄野誠一「智慧の環」と集英社『日本文学全集』」(『近代出版史探索』に収録)で過不足なく要約しているので、そちらを引用する。

 この中編は「重松さんが死んだ。」という一文から始まり、語り手の「僕」=加古が、友人である「君」に向けて、生前の重松との関係を告白していく体裁となっている。「僕」と「君」は共に滝を恩師としていたが、滝は事情があって文学を職業として生きていけなかったので、それが彼の文学の弱点だと重松は見なしていた。また滝にとって文学が生きる喜びだった事に対し、重松にとっては生きる苦悩に他ならず、滝はすでに亡くなっていたが、「僕」は編集者として、その相反する二人の狭間に置かれ、重松に翻弄されることになる。
 加古は病を得たことで筆を折り、雑誌社に入り、編集者となり、新人作家とよばれていた学生の頃に訪れていた重松に親しむ機会が多くなった。早くも重松は名実ともに第一級の作家として活躍していた。加古は雑誌の創作欄の担当となり、常に重松を訪れているうちに、重松の文学と文壇、雑誌と編集者に関する細心な処世術、それが文学上の方法論にまで浸透していることに気づく。滝の文学的方法はただ的確に表現することを最上としたが、重松にとっては不適格な表現が重要で、それが読者の心理をあやつる機能ともなるのだ。

 小田によれば、登場人物と実際のモデルは以下の通り。

加古/庄野誠一
重松/横光利一
滝/水上瀧太郎
安井兄/矢倉年
安井弟/中市弘

 下の矢倉年と中市弘は義理の兄弟で、甲鳥書林の創立者。庄野が『文藝春秋』の編集者だった時、同僚から「趣味的な文芸書の出版をはじめたい」二人の文学青年が相談相手を求めているということで、紹介された。甲鳥書林及び養徳社については、林哲夫「甲鳥書林周辺」(『古本デッサン帳』に収録)が詳しい。
 林も指摘しているが、庄野はこの二人の関西人とよほど気が合わなかったようで、「智慧の環」では横光以上に悪し様に書いているし、自分が甲鳥書林の社員であったことも隠している(小説では「多少の智慧を貸す役」と表現している)。
 林の調査によれば、甲鳥書林は戦時中天理時報社と合併し養徳社となったが、敗戦直後中市は社員を残して養徳社から抜け、甲文社を興したという。矢倉も書林新甲鳥という出版社を始め、中市とは組まなかった。


「智慧の環」は、平野謙が編集委員の一人だった集英社版『日本文学全集』の第88巻「名作集(三)」に収録され、平野が短い解説を書いたが、小田によれば昭和45年初版の廉価版『日本文学全集』には「智慧の環」も平野の解説も収録されておらず、昭和50年初版の豪華版『日本文学全集』にのみ収録されているという。変化があるのは「智慧の環」とその部分の解説のみで、それ以外は全て同じ。これについて、『日本文学全集』では何も触れていないが、小田は次のように推理している。

 おそらく当初の『日本文学全集』の企画において、「智慧の環」の収録は早いうちに決まっていて、平野謙もそのつもりで『名作集(三)昭和編』の解説を書いた。ところが刊行の段階になって、庄野が難色を示し、承諾を得られなかったことで、急遽削除して出版するしかなかった。ところが豪華版刊行の際にはその問題が解決されたこともあり、最初の計画通り収録して出版の運びにこぎつけた。これが真相ではないだろうか。

 一字一句全てチェックしたわけではないが、『文体』に掲載された「智慧の環」と『日本文学全集』に収録されている「智慧の環」では、一部表現に修正が加えられていて、後者の方がより事実に近づけて書かれている。例えば、

新しいものといへば、雪明けだけですが→新しいものといえば、「雪解け」だけですが
つひに未完の大作に終わつたあの作品→ついに未完の大作に終わったあの「旅路」
口繪入のエッセイ雑誌→「玄想」という口絵入りのエッセイ雑誌
青想→玄想
ヒューマンの五月號に「心房日記」→「人間」の五月号に「心房日記」

 なぜか「青想」と「ヒューマン」だけ、実在の物に戻していて、他はややぼかしたままにしている。「雪解け」は「雪解」、「旅路」は「旅愁」、「心房日記」は「雨過日記」のこと。
 このように「智慧の環」は、モデルがはっきりとわかるように書かれているが、ややわかりにくくしているものもある。ついでなので、それらもここで俺が分かる限り判明させておこう(引用は全て『日本文学全集』から)。まずは、「重松さんの弟子筋にあたる新進作家の、処世的なあやまちを指摘した二つの例」から。

Aという男がある大雑誌の知名な編輯者の仲人で、ほとんど面識のない老大家の娘と結婚したときだ。重松さんはそれが政略結婚と一般に見なされて、結局損するのはA自身だという理由で最後まで反対した。Aの作品がかりに大雑誌に掲載されても、仲人の雑誌記者か養父の老大家の斡旋によるもので、実力でかちえたのではないように一般に見られるし、A自身にもそういう依頼心が起りがちで、純粋に作品本位で生き抜こうとする覚悟が鈍るというのだ。

 Aは寺崎浩。老大家は徳田秋声で、娘は徳田清子。二人を引き合わせたのは、『改造』の編集者であった水島治男だが、仲人は菊池寛だった。水島によれば、寺崎は「横光利一のサロンにもっとも熱心に通った一人」で、当時新人だった寺崎の小説を『改造』に推薦・掲載したら、半年後、寺崎からいきなり「結婚相手をさがしてくれ」と依頼されたとのこと。当惑したが、徳田秋声からも半年前に長女の結婚相手を探してくれと頼まれており、「文士の娘だから貧乏暮らしになれている」と言われていたので、二人を引き合わせることにした(『改造社の時代 戦前篇)』)。

 Bの場合は、転々と作家と同棲してきたある女流作家とBが結婚したときだ。そういう事情に対してはことのほか好奇心をもつのが世間であり、そんな興味が先に立ってしまうことは、Bの作品を純粋に読者が観賞するさまたげになる。ことにその女流作家は、次々と同棲した私生活を素材にして作品を発表する人で、そういう点でもBは後手に廻るにきまっているし、世間の興味と同情はどうしても女に集中される。この結婚によって得をするのは、結局女だけだという重松さんの意見だった。

 Bは中山義秀。女流作家は正岡容、武者小路実篤、中村地平との恋愛で有名だった真杉静枝。この結婚は太宰治ですら止めていた(『母・円地文子』)。真杉には武者小路をモデルにした「松山氏の下駄」という小説がある。大草実によれば、真杉が中山と離婚したのは、「米櫃に筋を引いて印をつけておいて、米が減ったら分かるようにして」おいたぐらいケチだったからとか(『続・老記者の置土産』)。
 真杉は文壇人からかなり嫌われており、戦後は創作もパッとしなかったため、横光の心配は杞憂だったように思える。ちなみに、真杉はでかい男が好きだったらしい。

 ある文学賞の銓衡委員になっていた重松さんから、その受賞者決定に至る心理的経過について、一つのテクニックをきかされたことがある。僕も委員会の世話役を手伝ったことがあり、親しく目撃していたので、重松さんの表現はあまりに重松好みではあるが、多少は思い当たるふしがあった。というのは、その文学賞の決定はいつも難産で、盛んにもめたあげく、妙なところへ落ちつくことが多かったが、重松さんは自分の弟子筋やこれぞと思う人が候補に入っているときには、けっして初めから力説しない。たいていの委員は、めいめいこれぞと思うものを力説し合い、討論のようなかたちになって、互に相手の推薦する作品の欠点をつき合うようになる。さんざんもんだあげく、お互に言うだけのことを言ってしまうと、へんに疲れてきて、ただ反対派の推すものだけは入れたくないような意地だけが後へ残るのだが。それまで重松さんは控え目にしていて、あまり多くは発信しない。そういう状態のときに限って、今まであまり発言しない者の発言を求めて、局面の転換をはかろうとする人が出てくる。そのときになって重松さんは、今まで躍起になっていた人々のどの意見にも抵触しないような、またどの意見も少しずつ尊重するような言い方で、自分の推す作品の美点をあげるのだ。ゆっくりと考え考え、あの人独特のちょっと怒ったような朴訥な口調で言うのだ。すると一座の気分が急にかわり、そうだ、あの作品もなかなかいい、とニ三の人が呼応すれば、あとはもう伝染病のような空気が支配して、あっさりとそこへ落ちついてしまうのだと、重松さんは嬉しそうに自慢した。それはあの人の弟子筋にあたる人の受賞が発表された日のことだった。

 一番最初に書いた「処世術」にも該当する箇所なので、長々と引用してみた。会社員も会議の時に使えるテクニックではないだろうか。
「ある文学賞」は、恐らく芥川賞、「弟子筋にあたる人」は中山義秀か(弟子といっても二歳しか違わないから驚くが)。その時の銓衡会では田畑修一郎と中山の争いだったらしく、そこで横光の話術が発揮されたと思われる。中山の「残花なほ存す」(『花園の思索』に収録)というエッセイには、「三度委員會を開きなほした」と書いてあって、かなりの激戦だったようだ。中山は田畑とも親しくしており、決まらない間は苦しかったと当時の心境を吐露している。

重松さんと同じ文学グループにいて、新進作家から中堅作家へといつも轡をならべていたある作家が、どうしたことかその後はまったく文壇的に不遇となり、妙にひがんだ存在となっていたが、その人が戦時中、情報局や陸軍情報部へさかんに出入りをし、文壇人の思想傾向を進言し、ブラック・リストを提出したという噂が立ったときであった。重松さんの怖れ方は、まるで過去に二人のあいだに何かがあったようにさえ感じられるほどだった。

 ブラック・リストを提出したという噂がたったのは、横光と同じ新感覚派に属していた中河与一。横光は、中河と犬養健が対立した時に、内輪もめをやめるよう中河に忠告の葉書を送ったことがある(『評伝横光利一』)。横光は、庄野が指摘するように、党派性を大事にする人だった。『文學界』についても、「左翼に対する防衛戦」と見なしていた。

 六月にあの人を訪ねたのは、その少し前にあの人の著作二冊の重版ができて、その印税を届けねばならないことと、あの人からこんな手紙を貰ったからだ。
 その手紙の表面の用事は、去年の三月から僕の社で出しはじめた「玄想」という口絵入りのエッセイ雑誌の批評だったが、その中にあの人の心理状態がありありと感じられるのが、僕にはとてもつらかった。病気で新たなものが書けないにしても、いちおうはあの人に懇請すべきだったのを無視したばかりでなく、その雑誌で、あの人と同時代のライバルである小山さんに、思いきったスペースと優遇した組み方で、文明批評を連載で書いてもらっていることが、案の定、重松さんの神経にひっかかっているのだった。

「小山さん」は岸田國士。「玄想」で連載していたという文明批評とは、「宛名のない手紙」を指している(これは養徳社で後に単行本化された)。横光利一と岸田國士がライバルであったことは初めて知った。

ある老作家がこんなことを言って、一部の人々の顰蹙を買ったことがある。その人は自分の作品を悪評した者を終生恨んでいて、「営業妨害ですよ、」と一種ひょうきんなほどの率直さで憤慨していた。

 正宗白鳥の批判に、徳田秋声が「文藝雑感―正宗氏へお願ひ―」で「商売の邪魔をすることは控へていただきたい」と答えたことを指す。

ある老作家などは、いつでも原稿をニ、三書きだめしているので、何となく売れない作家という印象になり、予定の原稿が落ちて周章てたときに駆けこむスペアー作家になってしまった。

 近松秋江だろうか?

 さて、私が冒頭で書いた「凡百のビジネス書の何百倍も有用な処世術」も以下に引用しておく。サラリーマンの皆様方におかれましては、正月明け、これを参考にして職場でうまく立ち回ってほしい所存でございます。

 直接、人からほめられるよりも、友人などを通して、自分がほめられていることを知るくらい嬉しいことはない。重松さんはそういうやり方をしばしばつかった。しかもこの方法は、そのほめ言葉を中継する第三者の心理にも、ある影響をもたらす効果もある。人をほめるということは、それ自体、耳ざわりがいいばかりでなく、自分もほめられたいという気持ちを、無意識に人の心に目覚めさせる。もともと重松さんの応接間に集まるような者は、誰でもあの人の心を迎えたい気持ちはあるのだから、そこにおのずと心理的な影響が生まれてくるのは当然のことだ。その反対に、相手に向って言いにくいことも、当然その本人につたわるべき第三者に向って言う方法もよくつかった。この方法も、それを聞かされた第三者に及ぼす心理的影響を充分考慮に入れているようだった。そういう細心さにはまったく驚かされることがある。
 重松さんは(注:新年号の原稿依頼を)いちおうは誰にでもことわる。比較的なじみのうすい者は、重松さんと談笑をともにしたという満足だけを土産に引下がって行くが、常連の人たちは根気よく通ってくる。釣をするような気持ちでいねばならないことを承知しているからだ。そうして重松さんの方でも、何かのきっかけにこちらが糸を引くと、それらしい当りを示すのだ。その者は何回でも通い、それとない談笑の中にさぐりを入れたり誘いをかけたりする。そのあいだに重松さんは下原稿をつくるが、容易なことでは確約はしない。いったん確約してしまうと、今度は約束自体が重松さんを苦しめだすし、ぎりぎりまで原稿を手もとに置いておくことが困難にもなるからだ。
 だから、ぎりぎりになって原稿を手にしたときの編輯者の喜びと安堵は大きく、印刷所で待機している仲間のところへ意気揚々と引上げて行く。編輯者の原稿に対する価値判断というものは、その内容よりも取る苦心の方にどうしても比重がかかってくる。
 原稿料を初めからはっきり注文する作家がある。しかし一方、作家に対して原稿料をはっきり言うことを失礼ではないかという配慮が、一般の編輯者の頭にはある。そこへ作家の方から逆に私は一枚いくら以上でなければ書きませんと条件をつけられると、何となく幻滅を感じるのが普通だ。まるでその人の作品までが金のために書かれる商品にすぎないように見えてくる。だから重松さんはけっしてそれを口にしない。
 あの人は、あまりに流行作家になることを、絶えず一方で怖れていた。日本に作家が何十人いるとして、一方各雑誌に載る創作の一年間の総数を考え、それらを何十人かの作家がわかち合って生計の資を得ている。平均一人当り一年に何回しか割当てられないという数字を基礎にして、重松さんは自分一人であまりに多くの場所を占領することをいつも控えていた。
 重松さんの要心深さというものは、また並たいていではない。まだその人の考え方、人柄、知友関係などがはっきりするまでは、けっしてうかつなことを言わない。自然に言葉数が少なくなり、気むつかしくて取つきにくい印象をあたえるのだ。うっかり誰かの批評をしたりして、その人と批評された人とに何らかの繋がりがあるかもしれないし、またその人の人柄によってはかえって自分が悪評されぬとも限らないからだ。(略)だから重松さんは初対面の人に逢うことを、どんなに厭がるかもしれない。

 といっても横光のこうした処世術は、敗戦後通用しなくなってしまった。戦時中の言論抑圧と紙不足の反動で、敗戦後、俄に出版界に好景気が訪れ、新興の出版社が続々と出現したが、用心深すぎるうえ、見知らぬ相手でも邪険にすることのできない横光は、その対応だけで疲弊した。また、戦争中の国粋主義的パフォーマンスがたたり、戦後のジャーナリズムから猛攻撃を受け、それまで訪問していた客がまったく寄り付かなくなった(木村徳三『文芸編集者の戦中・戦後』)。「小説の神様」とすら言われた横光の急激な失墜は、それまで上手くいきすぎていたことに対する反動もあると庄野は見ている。
 横光は自宅に編集者や作家を集めてサロンを作っていたが、そういう「ホーム」でなければ横光の威光は通用しなかった。横光のカリスマ性はその曖昧模糊とした思想や文章、発言によるところが大きく、それらは内輪に向っていく性質を持っていた。逆に、横光の磁場の外にいる人間にとっては、何の意味も持たないものとなる。
 敗戦はそれを一気に露呈させたが、戦時中一度だけ横光のカリスマ性が揺らいだことがある。それは、横光が第一高等学校に講師として呼ばれた時のこと。大教室での講演が終わると、今度は十五人ばかりの学生が横光を囲んで座談会を行った。そこで学生たちは、横光がこれまで曖昧にしてきたことを、遠慮なく次々と突っ込んでいった。防戦一方の横光は、ちょっとした皮肉にもブチ切れる始末(加藤周一『羊の歌─わが回想─』)。加藤は、「そのときの横光氏には、徒手空拳、拠るべき堡塁が、文壇の名声と権力のつくりだした時流以外には何もなかった」と振り返っている。

参考文献
『日本文学全集』第88巻「名作集(三)」(集英社)
野口冨士男編『座談会 昭和文壇史』(講談社)
井上謙『評伝横光利一』(桜楓社)
小田光雄『近代出版史探索』(論創社)
林哲夫『古本デッサン帳』(青弓社)
大草実ほか『続・老記者の置土産』(経済往来社)
富家素子『母・円地文子』(新潮社)
鷲尾洋三『忘れ得ぬ人々』(青蛙房)
中山義秀『花園の思索』(朝日新聞社)
木村徳三『文芸編集者の戦中・戦後』(大空社)
加藤周一『羊の歌─わが回想─』(岩波新書)

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