見出し画像

西洋美術雑感 39:ポール・セザンヌ「リンゴの籠のある静物」

再びセザンヌを取り上げよう。なぜセザンヌが多いかというと、それはやはり彼が、その後の現代美術に多大な影響を与えた、ということが大きいからだ。彼自身は遅咲きな人で、中央のパリの画壇では彼の絵はなかなか認められなかった。後年、田舎にこもってひたすら描き続けたが、その画布は、まず先に、他の画家たちを説得して行ったのだが、最終的に、その影響力は絶大なものになった。
 
彼は、その現代的な絵画感覚ゆえに、現代美術の元祖みたいに解説されることが多い。そのせいで、さぞかし先進的な感覚に富んだシャープな人、と勘違いしかねないが、セザンヌの絵がセザンヌとして確立した後半生の彼には、そういう現代的鋭さみたいなものはあまりない。ただ、前半生のセザンヌは過激な自己主張をぶつける画家だったらしく、そのころの絵を見ると、ほとんど意図的にスタイルを誇張し、それゆえに、言ってみればかなり醜い絵がたくさん見つかる。
 
後半生の彼はなんだかだいぶ変わった。そのころ彼はパリを離れ、故郷の田舎で、来る日も絵を描く単純な生活を送っていた。そして、そこで、ただただ、自分の絵画に関する新しい着想と目的を、いかにして神の作ったこの自然と調和させながら実現するか、その駆け引きをひたすら続けていた。
 
ちなみにある人がセザンヌに、あなたは神を信じますか、と聞いたら、彼は「なんと馬鹿げたことを聞くのか。神を信じなければ絵は描けまいよ」とあっさり答えたそうだ。
 
駆け引き、と書いたが、一種、境界線のせめぎあいみたいなものも連想する。彼はそんな言葉を残してもいるのだ。絵を描きながら自分を出そうとすると絵は壊れてしまう。しかし自分を出さないわけにもいかない。はっきりしているのは自分という人間が介入すればするほど絵はだめになるということだ、みたいに言うのである。そういうぎりぎりの線を日々せめぎあいないながら孤独な仕事に没頭していたわけだ。実に堅物で、かつ変人。それは間違いない。その後の現代美術の颯爽とした鋭い自己主張のようなものは、セザンヌその人はほとんど興味がなかったのではあるまいか。
 
さて、よく知られたように、彼は林檎をメインにした静物画を大量に描いている。これはその中のひとつである。
 
見ればすぐにわかるが、われわれが思うところの林檎やオレンジのリアリティはなく、なんだか赤や緑に塗ったジャガイモみたいに見えないこともない。テーブルの稜線は至る所で食い違い、消失点もなく、かけられた白い布のせいもあって、どういう三次元構造かわからない。傾いた籠も、歪んだ白い皿も、倒れそうなワインボトルも、まさに見た通り不安定で、従来から使われてきた遠近法と、ものの接地感による安定も度外視して描いている。
 
これまで僕は、「サント・ヴィクトワール山」のところで、ひと刷けの色面の構成で表面を描くことを、そして、「水浴」のところで、西洋古典の波動のうねうねによる人物デッサンの拒否を、それぞれ紹介してきたが、この静物画では今度は、遠近法に基づく対象の三次元構造を無視する、というのが加わる。自分の考えでは、この三つが、当時のアカデミアの西洋古典絵画における決まり事を、ことごとく逆に行っているのである。
 
すなわち、対象になる風景があったとき、古典絵画においては、中にある無機物の構造物を遠近法による消失点でとらえ、そしてそこに、うねうねの波動による有機物を登場させ、それらを滑らかに連続した陰影で表面処理して、それで絵画が形造られているのだが、この三つをセザンヌはことごとく再定義している。無機物の構造物は三次元構造を基にせず、すなわち遠近法を捨て、自由な面や線で再構成し、有機物は波動による全体調和を使わず、したがって性的なものは完全に排除され、表面処理は煉瓦のような色面の構成で置き替えて滑らかな連続性を排除して、ここでも性を排除する。
 
しかし、なぜ、セザンヌはこういうことをしたのだろう。彼は確かに理屈の上では上述のような着想と目的をもって描いたのだが、彼の大前提は、あくまでも、神が作ったこの自然を芸術的に再構成することだった。だからこそ、彼の描いた画布は、これらまったく新しい着想にもかかわらず、そうそう遠くまでは行かない。目の前の自然の姿から決して逸脱せず、あくまでそこにとどまっている。そのせいで、先に言ったその境界線のせめぎあいの苦労もあるのだ。
 
その後の現代美術は、僕が上で説明的に書いた三つの着想をそのまま拝借し、それであとは、ピカソであれ、ブラックであれ、マティスであれ、それぞれの画家の個性に従ってその原理が縦横に使われた。しかし、セザンヌの絵に感じられる一種の苦々しさは、自分には、現代美術にはほとんど感じられない。ただ、それら現代美術のさまざまな画布は颯爽として見えるものの、それを生み出した画家たちの製作の様子を聞き知ってみると、やはり彼らも悪戦苦闘しながら描いたのは確かだ。


Paul Cézanne, "The Basket of Apples", 1893, Oil on canvas, Art Institute of Chicago, Chicago, USA

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?