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乱読のすゝめ【盤上のパラダイス】

僕は子供のころから将棋が好きで下手の横好きでチョコチョコ指している。
そんな僕が表紙を見て特に考えもなしに買ったのがこの本である。将棋に関する本だろうと思ったのだが、正確には詰将棋パラダイスという雑誌に関する本であった。予想は外したものの面白そうではある。そう思ったものの読み始めてすぐに一度挫折する。所々に書かれてある詰将棋に苦戦したのである。別に解かなくても読み進めるのだが、つい考えてしまう。考え出したら時間が刻々と過ぎ去っていく。全然読み進めない。
カバンの中に入れっぱなしで忘れかけたのだが、ふと入った喫茶店で改めて読み始めると何とか読み進めるようになる。
コーヒー一杯で極端な長居できないという思いですぐに見切りを付けれるようになったのと、読み進めるにつれて出てくる詰将棋が見るからに無理な領域で解く気がなくなったのが大きい。

盤上のパラダイス 若島正

予備知識なしで読み始めたわけだが、表紙には将棋盤と年配のおじさんと学生服の若者のイラストがある。少し読み進めると作者が詰将棋と出会い、詰将棋パラダイスという雑誌に夢中になって編集長を訪ねて知己を結ぶ。
なるほど詰将棋に魅せられた師弟の物語かなと目星をつけるが、結論から言えば全然違った。
詰将棋パラダイスをいう雑誌を通して、詰将棋という趣味に魅せられた異常な面々のアングラな世界で悶え苦しむ同人たちの悲喜劇であった。
詰パラを生み出した鶴田主幹、詰将棋作家、解答者、検討者、読者、皆が悶え苦しみながら生活の大半を詰将棋に取られながらも月に一度届く詰パラを今か今かと楽しみに待ち焦がれる。金にもならぬただ一人の専業編集者の生活も怪しいほどのギリギリの状態が長く続く。
同好の士の集いの空気感は昭和期の独特さもあって、どこか麻雀放浪記にも似た風も漂う。もちろん麻雀放浪記とは空気感も世界観も全く異なるが、いうなれば世間の価値観から外れた逸脱者たちが細い糸を手繰りながら水面から口を出して何とか息をしている。そんな様が似ているように思う。

詰将棋と言っても、通常我々が目にするような5手詰めとか7手詰めとか、多くても11手詰のような世界だけではない。見た瞬間に投げ出すような難解なものや1000手を超える物まで、奥がどこまでも深い。
詰将棋を作るのは難しく余詰めや不詰めと不完全な作問が起こりうる。
余詰めとは正解以外にも答えがあるケース。不詰めとは読み筋に抜けがあり実は詰まないケース。
検討者は一つ一つ確認していく。余詰めは3手詰を遠回りして五十数手の余詰めを突き止めたりもする。作者の思惑を超え不完全を突き付ける一種の楽しさがある。しかし不詰めはない答えを探し続けなければならないという地獄である。5手7手なら何とかなるよ。でも十数手、二十数手の詰将棋で実は不詰めってキツイ。
詰将棋界にこういう格言があるという
『余詰にツミなし、不詰にツミあり』
なんとも悶える苦しむ格言である。

本書は昭和63年に元々は発刊されたもので、鶴田主幹の死、新編集長の誕生を以て終わりを迎える。
それに加筆修正がなされ、補遺が加えられたものである。
詰パラはその全てが常にギリギリの綱渡りでありながら詰将棋愛にあふれる人々に支えられ今も息づいている。
あとがきや補遺を読む段になり、ふとあることに気づく。
私は元々読み始める際に、きっと師弟の話だろうと思って読み始めていた。
鶴田主幹とそれを引き継いだ著者の話だとばかり思っていた。
しかし継いだの別の若者で、しかもそれもしばらくで挫折し別の人が引き継いでいる。
あれ?この人は何者だ?
著者のプロフィールを見返す。おっと京大教授じゃないか。
さんざん社会から外れて生きる逸脱者で生きにくいと言いつつ・・・教授ですか。ちょっと話が違うんでないかい。

でもまあ京大で英米文学。
まあそっちも象牙の塔か。

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