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46歳からの読書【日本アパッチ族】

教養が欲しいと読書習慣をつけようと四苦八苦しているのですが、そんな話を友人にすると、本を数冊貸してくれた。いや自分で読みたい本を読むからと思ったけど、30年来の友人だ。無碍にはできない。ありがたく拝読する。
まず1冊目が小松左京の日本アパッチ族だ。娯楽小説で僕の趣旨とはズレる気がするがたまにはいいだろう。

日本アパッチ族 小松左京

僕は大阪生まれで大阪育ち、46年も生きていればアパッチ族が何かは知っている。少し特殊な用語だが、僕らの世代では常識ではないだろうか。
かつて大阪城の近くに大阪砲兵工廠があったのだが、大阪空襲で攻撃対象となり戦後長らく廃墟となって放置されていた。そこへ夜な夜な屑鉄泥棒が出没して、屑鉄も国有財産だとする官憲、警察との攻防を繰り広げた。
その屑鉄泥棒を、ネイティブアメリカンの一部族になぞらえアパッチ族、その集落のバラック群をアパッチ部落と呼んだ。
と言うのが、この小説を読む上での予備知識だ。

実は、アパッチ部落について調べると、3つの文学作品があげられている。一つは開高健の日本三文オペラ、もう一つは、ヤンソギルの夜を賭ける。そしてこの日本アパッチ族だ。しかしこれが僕は読んでないまでも何とも不思議に思っていた。日本アパッチ族はアパッチ族を下地にしているとは言え、荒唐無稽な娯楽小説、SF小説である。3つを並べるのは無理があるのではないかと思っていたのである。
しかし僕はその考えを改めることになった。

アパッチ族は1959年には解散している。とはいえ、その残滓や名残はずいぶんと後まで残り、大阪の街中にはそれらしいバラックや人々が、2000年代になってもなお残っていたのである。そんな事だから、何となくわかったように思っているが、僕にはその実態がよく分かっていなかった。
貧困層による窃盗集団という単純な言葉では理解できないものを感じていた。

読み始めてすぐに気づいたことがある。それは犯罪集団を描いたピカレスク小説でもなければ、貧困層のあがきを描いたプロレタリア文学でもなかった。この本の中のアパッチは愚連隊のような存在でも、食い詰めたホームレスでもない。犯罪小説の痛快さも、貧困層の苦悩もそこには描かれていない。
もちろん娯楽小説であるからして、純粋に滑稽で面白くはあるのだが、読み進めていくうちに、アパッチ部落の本質が描かれているように思えてきたのだ。
僕は読み終えて一つの答えにたどり着き、アパッチ族が何なのかが腑に落ちたのである。
アパッチ族は、犯罪者と言うより、無秩序の中で生き抜き躍動した人々のことであって、法秩序に反する人々ではなくて、法秩序の外にいる人々なわけで、いうなれば『サンカ』のようであり、戦後の無秩序の中で生まれた最後のまつろわぬ民であったのだ。アパッチ族だけではなく『荷抜き屋』も出てくるけど、これもやはり海賊であり『まつろわぬ民』といえる。

この本が発表されたのが1964年ではある。アパッチ族は実際には1959年8月に解散しているが、彼らとその名残は残り徐々にではあるが、雲散霧消するかの様に消えていったわけである。
『まえがき』に「無秩序なエネルギーに満ちた『廃墟』そのものの物語である。同時に廃墟自身のもう一つの未来、もう一つの可能性かもしれない」とある。
単純に架空戦記モノという側面もあるが、むしろ雲散霧消したアパッチのもう一つの未来。
窃盗集団というアパッチの一般的な認識をまつろわぬ民として昇華させる意味もあるように思う。虐げられし者の挽歌と言うよりは、まつろわぬ民であるアパッチに対する鎮魂歌なのだ。『漂泊する廃鉄民の残痕』の物語である。
アパッチは昭和のサンカであり、小松左京や開高健が、彼らに惹きつけられたのは、サンカに惹きつけられた柳田國男と同じである。

SF小説を読んでの感想とは思えない答えにたどり着き、僕自身、困惑をしている。
だからもう一つSF的要因に対する気づきに言及して終わりにしたい思う。
この小説の中のアパッチ族は食鉄習慣を身につけ鉄の肉体を手に入れている。その食鉄習慣が日本各地で同時多発的に現れるわけだ。なるほどシンクロニシティだなと思って読んでいたのだが、一向にその言葉が出てこない。
そうか『百匹目の猿』以前の作品なのか。
つまり『日本アパッチ族』はシンクロニシティの現象を紹介した初めての書物でもある訳だ。

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