【小説】真夏の忘れ物3

目はすっかり冴えていた。私は正座で静かにコール音に耳を澄ませていた。
「もしもし!馬場さん?」
電話に出た音を聞いて私は慌てて言葉を放った。
「あ、お疲れ様です広瀬さん。」
「あの…俺昨日…」
「はい、広瀬さんの家まで送らせていただいたのですがご迷惑ではなかったですかね」
私は女神と電話しているかのような錯覚に陥った。
「俺全く昨晩の記憶がなくて…安田と飲んでて酔っ払っちゃって…経緯を教えて下さるとありがたいと言うか昨晩は誠に申し訳ないというか」
「えっと、私昨日は10時代まで残業してて。浜松町駅で電車待ってたら、酷く酔ってる方がいらっしゃるから、誰だろうなと思ったら広瀬さんで。びっくりしたんですけど足取りもおぼつかない様子だったので、お節介かもと思いながらも五反田まで送らせて頂きました。そしたら、なんと言いますか、広瀬さんが『もう歩けない』と仰るので、広瀬さんに案内して貰ってご自宅まで…ごめんなさい本当に。ご自宅までは失礼だとは重々承知していたのですが、その…あまりに酔っていらっしゃったので」
私は話を聞いていて死にそうだった。穴があったら入りたいとはまさにこの事だろう。後輩の女性社員に泥酔した醜態を晒すばかりか、彼女にとてつもない迷惑をかけるなどという恥を超える恥などそうそうないだろう。
そして、更に私はもうひとつ開けなければならないパンドラの箱を持っていた。私は自制心が欠落していると思ったことはただの1度もないが、どうやら昨夜の私は私の知る私ではなさそうなのだ。これほど優しい馬場さんに不貞を働かなかったという自信はまるでなかった。
「あの…昨日俺が家に帰ってから、馬場さんに…その…最低なこととかしなかったですか…」
これは聞くことすら失礼な気はしたが、しかし聞かねばならない事だった。
馬場さんは直ぐに否定した。
「本当に何も無かったですよ。広瀬さんは家に帰ってからすぐにベッドでお休みになられました。私は一応水と酔い止めだけコンビニで買って部屋に置いてから、おいとましました。鍵は郵便受けに入れておきました。余計なお世話ばかりして申し訳ないです」
彼女の真っ直ぐな声から紡がれる言葉が、より私を惨めな人間に仕立て上げた。どうして私はこれほどダメなやつなのだろうか。
「本当に重ね重ね申し訳ないです。そして、昨晩は本当にありがとうございました」
気づけば私は、馬場さんに対して礼と謝罪を繰り返すマシーンと化していた。
馬場さんは少し笑ったような声を出してから言った。
「先日、広瀬さんに失礼な質問をしてしまったので、今回はそのお詫びなんです。」
「いや、それは本当に大丈夫。それより、昨日あんな迷惑かけちゃって謝っても謝りきれないというか…」
「本当にお気になさらないでください。それより、お酒は控えた方がいいかもですよ。」
私は、暫くの間酒を断とうと誓った。

「本当に良いんですか?」
遠慮がちに馬場さんが尋ねる。
「いや、全然大丈夫だよ、うん」
私としては余裕を持って答えたかったが、恐らく顔はひきつっていただろう。レシートを持つ手は軽く震えていた。
どうしてこうなったか。それを説明するためにはいささか時間を遡らなければならない。私が記憶を失うほど飲んだ3日後の月曜日のこと。

「本当に申し訳ない」
私は朝職場に入るなり馬場さんに深深と頭を下げた。
「大丈夫ですから!顔をあげてください!」
馬場さんは慌てて言った。
「このお詫びはいつか…」
「本当に気にしないでください!」
馬場さんは首を振った。
私が席に戻るとやはり安田が隣から囁いてきた。
「俺のアキちゃんに手を出したんですか…」
「お前のじゃねえだろ…タバコ行くぞ」
私はニヤつく安田の右腕を引っ張った。

「…なるほど。酔いに任せて連れ込んだと」
事の顛末を話すと安田は笑いながら言った。
「話聞いてた?」
「ははは。聞いてましたよ。しかし、アキちゃんはいい人というか…まあ悪く言っちゃお人好し、世間知らずというか」
「まあ…そうだよな」
「先輩の言動見てて、襲うような人間じゃないとはわかると思うんですけど、それでも酔った男なんて何しでかすか分かったもんじゃないし…」
「実際俺も、今でも何かやらかしたんじゃないかって不安でさ」
「というか、やっぱりひとりで帰れなかったんですね」
安田は呆れたような笑みを浮かべた。
「本当に失敗した。安田にも馬場さんにも迷惑かけてしまった」
「俺はいいんですけどね、いつも飯食わせてもらってるし金曜も奢ってもらったんで。アキちゃんには…まあしかるべきお礼というかお詫びというかをした方がいいかもっすねえ」
ふぅっと煙を吐き出した学生気分の抜けない生意気な後輩が、なんだか随分大人びて見えた。
「アキちゃん、焼肉好きですよ。財布に余裕が出来たらいいやつ奢ってあげたらどうです?」
「なんで知ってんのそんなこと」
「情報収集はデートに誘う時の基本でしょうが」
「なら尚更そんなこと俺に教えていいのかよ」
「その情報はもはや俺には必要ないものなので」
「え?」
私が問うと安田は少し誇らしげに、少し恥ずかしそうにして言った。
「俺、昨日彼女できたんすよ」
「マジか!?」
「マジです。大学の後輩と」
「いやぁ、それはおめでとう。昨日デート行って?」
「いえ、その子とはもう何回も遊びに行ったり飯行ったりしてて。俺はただの友達だと思ってたんですけどね。彼女と昨日電話してて『好き』みたいに言われたんで。なんかそう言われると俺も好きだわ、みたいな。そんで、二つ返事でOKしちゃいました。来週デート行きます」
嬉しそうに話す安田を見て、こちらまで嬉しくなった。同時に、華と交際を始めた頃の記憶がよぎってキュッと胸が締め付けられるような心地がした。煙草の煙が少しその時の私には苦すぎて、強く吐き出した。
「と、言うわけなんで先輩は安心して馬場さんを誘ってくださいね!」
「ハナからおめぇになんか気を遣わねえやい」
私は煙草の火を消して冗談っぽく吐き捨てた。

「焼肉…ですか?」
「うん。この前のお礼とお詫びを兼ねて」
そう言うと馬場さんは目を輝かせた。
その日は安田に恋人が出来たという報告を受けた二日後の水曜日だった。
「全然気にしなくて大丈夫なんですけど…本当にいいんですか?」
「きちんと借りは返さないと俺の気持ち的にもあんまり晴れないというか。美味しいって聞いたところがあって俺もそこ行きたいし、良かったらと思って」
「じゃあお言葉に甘えて。週末の金曜日ですよね」
馬場さんは手帳とボールペンを取りだした。
「うん。あ、別の予定入っちゃったらそっち優先していいから」
「ありがとうございます。楽しみにしてます。」
馬場さんはニコリとすると軽く頭をさげた。

金曜日の夜は上機嫌に歩くくたびれたスーツに溢れていた。私たちの会社は服装規定がなく皆私服だが、サラリーマンの街の港区ではやはりスーツや制服で働く大人たちが大多数のようだ。そしてそうであるからこそ馬場さんのワンピース姿は、若々しくも可愛らしく目立っていた。
「今日はご馳走になります」
馬場さんはオフィスを出てから何度も私に礼の言葉を述べた。
2人でいつもよりも人通りの多いアスファルトの道を歩いた。会社のことやら面倒くさいクライアントの愚痴やらを話していたらあっという間にお目当ての焼肉屋へと着いた。
「らっしゃい」
店内へ入ると若く威勢のいい店員が奥からでてきた。
「何名様で?」
「広瀬で6時から予約してるんだけど」
「ひ、ひ、広瀬。はい!かしこまりました!2名様ですね?」
「そうです」
「こちらの席へどうぞ〜」
店員が背中を向けた。『焼肉三郎』の文字が黒地のTシャツに白い文字で荒々しく描かれている。こういうのを見てなかなかセンスがいいだとか品定めしてしまうのは、デザイナーとしての職業病だった。
案内された席は受付から1番遠い角の個室だった。内装は聞いていた通りのオシャレな造りだった。壁紙は黒で統一されており、個室はきちんと区切られていた。照明器具は通路には最低限しか設置されていなかったが、足元は明るく不便ではない。ところどころ飾られている白色の造花も印象的だった。しかし、その席に着くまでに強烈な焼肉屋特有の油と煙の混じった匂いがして、馬場さんが洋服に匂い移りして嫌な気持ちにならないか少々不安に思った。
向かいあわせで席に座ると馬場さんはすぐに
「凄く素敵なお店ですね」
と言った。
「ごめんね。焼肉だから服に匂い移っちゃうかも」
私は軽く両手を顔の前で合わせた。
「そんなことを気にして焼肉が食べれますか?」
馬場さんはエプロンをつけながらにこやかな表情を浮かべた。私もホッとして、運ばれてきたおしぼりで手を拭った。
「ドリンクも好きなの頼んでいいよ」
「広瀬さんは今日飲まれますか?」
「いや、ちょっとあんなことがあったので控えます」
私が笑うと馬場さんは笑顔のまま
「そうですか。じゃあ私もやめておきます」
と朗らかに言った。
「遠慮しなくていいよ」
「いえ、こんないい所滅多に来れないので焼肉に集中します」
馬場さんは箸を手に持ってかちかちと鳴らして見せた。
「じゃあ頼みますか」
そこからの出来事に私は呆気に取られたのだった。これ程細く小柄で可愛らしい馬場さんのどこにこれほどの馬力があるのやら…次々と彼女は焼いた肉を平らげていった。真の肉食いは焼肉の時にビールも米も必要ないのです。こう言っていたのは誰であったか。私は馬場さんを見てその言葉が真理を突いていることを悟るのだった。クジラが大量のプランクトンを腹の中に入れるがごとく、次から次へと肉を口の中に運ぶ。私はその食いっぷりに魅了されて、高い肉をガンガン頼んで行った。幸せそうに肉を食べる馬場さんを見るだけで、私まで幸せな気持ちになっていた。
「俺はもう充分かな」
ポロリと言うと、馬場さんは少し物足りなそうな顔をした。あんなに食べたのに。恐らく上司が食べ終わったのに、自分だけ食べ続けるのは気が引けると思ったのだろう。
「やっぱりもう少し食べよう」
悲しそうな馬場さんの顔を見て可笑しくなった私は、すっかり膨れ上がった腹をさすりながら言った。馬場さんは嬉しそうだった。

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