愛とはなにかって、実際めっちゃ難しい
「愛とはなにか」って考えたことありますか?
みなさんはおさるさんの歌位に、アイアイ言ってると思います。
愛がほしいとか、愛してるとかイロイロ。
まず一つ言えることは、「好きの最上級ではございません。
好き、大好き、愛してるみたいな三段活用みたいに使ってる人がほとんどと思いますが、愛とはそうういう事ではありませんね。
なぜかというと、この三段活用における愛してるは「性欲に準ずる」ことが多いからです。
ならば愛とは何か、少しづつほぐして世界を広げていきましょう。
まず、愛の反対とは「無関心」といえます。
目の前で人が車にぶつかっても、まったく興味がないので心が動いてない状態です。
はたまた、小さい子供や動物、美味しそうな料理、何見ても無関心。
そこには愛はありませんね。逆を言えばその人の愛が欠落している可能性もあります。
となると、その「関心」が一つのトリガーになるとわかります。
次に「愛のある行動」から考えてみます。
なんとなくわかりますよね。見返りのないサポート、それに気づく気遣いの心。
これらの行動に、「これがいいことだから」という理由付けがあった時、それは善意を模した行動なので、「愛のある行動」ではないです。
ここから考えられるのが、「良い悪いを比較評価して良いを選ぶ事」が愛ではないと少しわかってきます。
この比較することを抜いてみましょう。
皆さんは海辺の夕日、見たことありますか?
ただ青い空を見上げたことがありますか?
ここから少し感性の話も入るので難しくなると思います。
この自然の風景に感動するとき、何とも言えない心がほぐれるような感覚を覚えることがあります。
只々、壮大で美しい自然を前にしたとき、比較の世界から自由になり私たちは一人の人間として存在することができます。
この感動が「憂い」であると私は最近気づくことができました。
(シューベルトの即興曲3番を聞いたときに憂いに気づいたのですが、曲の印象を書くのでもしかしたらわかるかも?(笑))
『街を見下ろせる坂道の上から夕焼けに染まる町と空を見下ろし、そこに絶対の美しさを感じながら、でも少し悲しいような”憂い”を思い、振り返ると上り坂”人間の道”があり、その世界の美しさと人間の汚さの間に立って憂いを感じている。だけど、私は人間が好きで希望を持つ。優しさと残虐性の2つを持ちながら歩いていく』
この「比較の世界」から解き放たれた時、憂いをもつことができます。
憂いを持つ人、すなわち「優しい」という事です。
これに気づくと、一気に愛の存在に気づくことができます。
この「優しい」というのは、「自分と誰か」がいるという条件があります。
そのもう一つ上の階層にあるのが「愛」です。
だから、私たちはすでに愛の中にいます。
あなたはすでに愛されているし、愛を持って接しているんです。
ただ人間社会の中で、色んな環境や影響により、その発揮が難しいのです。
最初に述べた、好きの三段活用。
今の愛とは何か踏み込むときに、出てきませんでした。
だから、好きな人も嫌いな人にも優しくなれるんです。
なぜなら私たちはすでに愛を持っているから。
とはいえ、どのようにその愛の存在を感じながら日々過ごせばいいのか。
これにはいくつか「乗り越えないといけないもの」があります。
まずは自分を放し飼いにして、自分を許してあげることからはじめるのがいいと思います。そうすれば人や、人と自分を比較することなく、人の事も許せるようになるからです。
自分で自分を締めた鎖を取ってあげましょう。
そうすれば心は軽くなり、世界が良いものだとまた気づくことができるでしょう。
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