「祈り」についてのアウトプット
祈りってなんでしょうか。
日本の文化とは多様なものから形成されています。社会の仕組みで個性が単一化の様な傾向にありますが、私たちがもつ文化のパーソナリティの形勢は多様だと思っています。
もちろん他の国にも見受けられますが、食文化や言語、文字、論理などは他国の文化も混ざりながら形成されていると思います。
題目にもある「祈り」についてですが、キリスト教やイスラム教の祈りがイメージしやすいと思います。
日本でいう「祈り」とは、八百万(やおよろず)を神格化させてしまう感性をもつ日本人のパーソナリティからすれば、先述の宗教の祈りではなく新たな形として身近にあると思います。
さらに仏教や神道などのカテゴライズではなく、習慣として手を合わせて何かを思ったり、神社やお寺や色んなところで手を合わせて何かを思っています。
その思い方にも、色んな考え方があり、情報番組や井戸端会議でも話されています。
「まず、自分はどこの誰かを名乗り、お願いではなく感謝を述べると良い」とも聞きます。これは日本人の謙虚や謙遜の文化からきた考え方と思います。
私個人としては、半端ではありますがキリスト教での学びからの祈りを知っています。そして、家系におけるお寺さんでの手の合わせての祈りも少なからず知っています。
ここでは、特に心の整理や感情の整理にもなるのでキリスト教における祈りについて、少しアウトプットさせて頂ければと存じます。
「愛とは何か」という壮大なテーマは、今現在も私の生きてる上でのテーマの一つです。
相手に求めるのではなく、与える事ができる心である事。
色んな事に期待して、色んなことに耐え忍び、色んなことを喜び、悲しみ、自分の飢えに蝕まれず、人に与える事ができる様に。
心が傾き、固執した考えに囚われ蝕まれない様、心が健康的である事を心がけています。
その中で、この「祈り」という業(わざ)は、私たちの心を落ち着かせ、気づかなかった事に気づかせるなど、大きく成長させるきっかけにもなります。
変なマインドコントロールではないので安心してください(笑)
この祈りは、深く自分と向き合う事ができます。第三者に、神様に立ってもらい、洗いざらい剥き出しの自分でお話しができます。
深刻さによって変わりますが、よく苛立つ心が落ち着いたり、人や世間に対して、不平不満が沢山あったのに落ち着いたり、心を成長させる事ができます。
祈りについても、学び、正しく考えなければいけませんが。。
急に簡単になって申し訳ないですが、兎に角、祈りができると、とても助けられますよ(集中力切れた)
この世には全ての人間がかかる、二つの不治の病があると考えています。
一つは、空腹。もう一つは恋の病です。
後者については、渇きや飢え、コンプレックスが関わったり、なかなか健康的に進まないのが有名な病でもあると思います。
そんな事も考えてるので、ジャズとコーヒーしばきながら、こんな事を話し合うのもいい時間ではないですかね。
っていう話。(え?)
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