ソシュール 言語論
名前について
物事に名前を付けることで区別をすることができる。
日本では「蝶」と「蛾」を区別して認識することができる。
両者とも昆虫であり大きな羽があり触覚があり・・・と似たものであるが私たちは確実に区別して認識をしている。それが可能となっている理由は区別するためのラベル(名前)がついているからである。フランス圏では「蝶」も「蛾」も同じ「papillon」と一つの名前にくくられている。フランス人からすれば「まぁ、確かに少し違うかもしれないけど別に気にするほどじゃあないよね」とその程度であるだろう。
色についても同様なことが起きている。日本では虹は7色と認識されている。しかしアメリカでは虹は6色、中国では5色と虹は認識されている。これは決して違う虹を見ているからではなく色を区別するための名前の差。それまでのことである。「赤」「朱色」「オレンジ」・「青」「藍色」「紫」名前がついているからこそ区別をするが、名前がもしなかったのであれば、我々の認識としては、やはり「まぁ、確かに違うかもしれないけど別に気にするほどじゃあないよね」こんなもんではないだろうか。
自己応用
目に映るもの、耳に入る音、鼻で感じる香り、手で触れたもの。漫然と経験するのではなく意識をする。あいまいな記憶を記録として残すためには名前というラベルを付けよう。愛する人と映画を見たのであれば、その記憶に「〇月✕日ショーシャンク空に」とかなんでもいいから一枚写真でも添えて名前を付けてあげることで、何度も経験するであろう「映画を見たという経験」が一つ一つ明確に認識できるようになり、より豊かに世界を色鮮やかに彩ることができるだろう。
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